2011年04月24日

深海

深海.jpg

 ロミ郎が僕の部屋に現れたのは、深夜3時を回った頃だった。その日のロミ郎は、珍しく酔っていた。片手にアーリータイムスのボトルを下げ、トロンと眠そうな目つきをしていた。
「ちょっと歩かないか?」ロミ郎は僕を誘った。僕は少し迷ったが誘いを受けることにした。今日のロミ郎の様子がいつもとは違う感じがして、幾分心配になったこともあった。

 表に出ると思ったより寒かった。「寒いだろ?」僕はロミ郎に聞いた。ロミ郎は何も言わずウィスキーのボトルを差し出した。僕はボトルを受け取るとラッパ飲みで体内に流し込んだ。胃の中にアルコールが落ちて行き、静かに燃え上がった。

 ロミ郎も歩きながら何度か、それを流し込んだ。らしくない。ロミ郎にしては、ずいぶん荒っぽい。何か忘れたい事があるのかもしれない。

 ロミ郎は変わり者で通っていた。実際、ひどく無口だったり、ある時には大声で騒いだり、つかみどころの無い男だった。それに変な噂があった。ロミ郎はホモで初老の紳士と付き合っているという噂だった。僕はそんな噂を知りつつ、それでもロミ郎と一緒に行動することを好んだ。ロミ郎と僕は不思議なくらいに気があった。

 大通りから折れて細い路地に入り込むと、向かうから歩いてきた4人組みの男とロミ郎は、ぶつかりそうになった。男達も酔っていた。一人の男が声を荒げてロミ郎に詰め寄った。ロミ郎は無言のまま、詰め寄った男とにらみ合いになった。

 ロミ郎はやるつもりだ。普段のロミ郎は、もの静かな男だったが、時々手がつけられないほど荒れる事があった。どんなに殴られても蛇のように絡み付いて離れなかった。それを知る者は気味悪がって、ロミ郎には近づかなかった。僕は小心者だったが、かなり荒っぽいスポーツを長くやっていたので肉弾戦には抵抗がなかった。相手が手を出せば、ロミ郎は向かって行くだろう。僕は覚悟を決めて拳を握り締めた。身体が熱くなってワナワナと震えた。

 文句をつけた男は、大声でロミ郎を罵倒したが、ロミ郎は少しも怯まず、男を無言でにらみ続けた。男の連れが後ろから声をかけた。「こいつら頭がいかれてるぜ。こんなヤツに構うな」連れの男は、文句をつけた男をロミ郎から引き離した。文句をつけた男はロミ郎に捨て台詞を吐いて、そこから立ち去って行った。

 ロミ郎は暗い目つきのまま、再び歩き始めた。男達の言い分は、少しも間違ってはいなかった。その頃の僕らは、間違いなく頭がいかれていたのだから。

 大きな川に沿った遊歩道に出た。この川は海まで続いている。海に向かって歩いていると次第に夜が明けてきた。青白い光が辺りの空気を染めて行った。僕は歩を止め遊歩道に隣接した駐車場の柵にもたれて煙草を吸った。ロミ郎は川べりのベンチに腰を下ろして、川の流れを見つめていた。

「何かあったのか?」僕は気になっていたことをロミ郎に聞いた。たぶんロミ郎は何も話さない。もしくは話せない。それでも僕は聞いた。恐らくロミ郎はそれだけを望んでいた。ロミ郎は無言で首を左右に振った。

「あの子と上手く行ってるのか?」ロミ郎は普段聞かないような聞いた。玲子とは最近会っていない。少し分からなくなっていた。一人でいるほうが、ずっと楽だった。僕のそんなところが彼女には面白くないのだろう。実際、僕は少しも面白くない人間だ。「難しいね。一人でいる方が楽だよ」僕は返事をした。

「おまえは結婚するタイプだよ」ロミ郎は川を見つめたまま僕に言った。確かに僕はそんなタイプだ。僕は平均的な男だった。平均的な家庭に育ち、平均的な学校を出て、平均的な就職をする。平均的な恋をして、平均的な家庭を持ち、平均的に子供を育む。そして平均的に死んでいくのだ。僕は自分の一生を容易に想像できた。面白くない。でも、それが僕だ。

 ロミ郎は違う。他の誰とも違っていた。恐らくそれがロミ郎に引かれる最大の理由なのだと思う。彼は他の誰とも違っていたが為に、誰よりも孤独だった。ロミ郎は黙って川を眺めていた。僕は何も言わず彼を見守っていた。僕は今以上、ロミ郎に深入りはしたくなかった。ロミ郎の抱えている問題は、僕の手には、とても負えない種類のものだと想像できたからだ。

 僕は柵から離れて、川べりまで歩いた。そして朝日を浴びて次第に輝きを帯びてきた、川の流れを覗き込んだ。僕はしばらくその流れに見とれていた。川音がロミ郎の気配を消していた。気がつくと彼は僕の真後ろに立っていた。そして何も言わずに僕を後ろから抱き締めた。ロミ郎は僕に覆い被さるように強く強く僕を抱いた。時間が止まったように感じられた。僕は強い衝撃を受けて、頭が真っ白になっていた。ロミ郎の鼓動をはっきりと背中で聞いた。

「もう少しだけ、このままでいてくれないか」ロミ郎は呻くように言った。僕にはロミ郎の行為が理解できなかった。と同時に彼が可哀相に思えた。僕はロミ郎に言われるまま、じっと動かなかった。
「俺を救ってくれないか。救い出してくれないか」ロミ郎は消えるような声でつぶやいた。

 しばらくしてロミ郎は身体を離し「悪かった」と言った。僕は彼の顔を見ることも出来なかった。ロミ郎は小走りでそこから立ち去った。彼の後姿も追わなかった。僕はただ混乱していた。

 再び、僕がロミ郎の姿を見たのは、それから、ずいぶん後の事だった。僕は仕事で遅くなり、暗い夜道を自転車で帰宅していた。大きな交差点で信号待ちしていると横に黒塗りの高級車が止まった。車の助手席にロミ郎が座っていた。彼は口を半開きにして目をカッと見開いていた。しかし、その瞳には何も映っていないように感じられた。彼は目を見開いたまま虚空を凝視していた。失神しているのかもしれない。僕の身体には凄い勢いで鳥肌が立った。運転席には、初老の紳士が乗っていた。キチンとした身なりをしていた。ロミ郎の父親と呼んでも可笑しくはなかった。この人がロミ郎の恋人だろうか。運転席の男は僕に気がついて目が合った。男はとても哀しそうな表情をした。

 青いネオンライトで照らされた車中は、まるで海水の中のように青白かった。彼ら二人は深海に取り残されたように見えた。地上に切り取られた深海で、もがいているように感じられたのだ。

 信号が青に変わり、車は動き出した。僕はその車に何かを持ち去られた気持ちになった。それが僕の中にあったなんて、ずっと気づかずに生きてきた。



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posted by sand at 03:03| Comment(0) | 超短編小説・ロミ郎シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月17日

ロケットマン

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 イーライがどこで産まれ、どこで育ち、どこに暮らしているのか私は知らなかった。私が彼女について知っているのは、イーライがロケットを探しているという事だけだった。

 イーライが私に近づいてきたのは、デパートの家具売り場だった。私は椅子を探していた。彼女は目の覚めるような真っ赤なスーツを着て長い髪を無造作に束ねていた。褐色の肌に黒い瞳。顔はノーメイクに近く、手にはエドガー・アラン・ポーの詩集だけを持っていた。彼女のエキセントリックさは、その強い眼差しに滲み出ていた。イーライは私に近づくなり「あなたの探しているものを私は知っているわ」と笑みを浮かべた。どうやら椅子を選んでくれるようだ。私は彼女を不審に思うより興味を持った。彼女は魅力的で、その種の不思議な雰囲気を持った女性に、従来から私は引き寄せられた。彼女は自分はイーライだと名乗った。そして「私の探しているものを、あなたは知っている」と私の瞳を覗き込むようにして言った。

 イーライは彼女の選んだ白い椅子と一緒に私のアパートにやってきた。リビングの窓の下に置かれた白い椅子に彼女は腰を下ろした。彼女はエドガー・アラン・ポーの詩集から「The Raven」を読んだ。時に声を上げ、時には無言だった。私は益々彼女に引き寄せられた。
彼女はどんな女性なのだろう? 私はそれを知りたかった。

 イーライは私が勧めた飲み物や食事を、ことごとく断った。彼女はただそこに座っているだけだった。私は幾つかの質問を彼女に投げかけたが、彼女は決してそれらの質問に答えなかった。彼女はポーの詩に登場する大鴉のように「Nevermore」と口にするだけだった。

 翌朝、私が目を覚まし、寝室から起き上がって来ても、彼女は椅子に座ったままだった。私は少し不審に思い始めたが、彼女が何を持ち出すわけでもなく、もう少し様子を見ることにした。私は少しの疑念を抱えながらも、彼女を部屋に残したまま外出した。

 その夜、部屋に戻ると私は唖然とした。部屋中の引き出しやタンスが引っ掻き回されていた。明らかに何かを物色した後だった。それでもイーライは平然と椅子に座っていた。私はイーライに詰め寄り、激しい口調で問いただした。「何が目的だ?」「どうして私に近づいた?」。しかし、どんな問いにも彼女は答えなかった。

 私は彼女を追い出すべきか迷った。当然そうするべきだった。しかし、私はまだ彼女に未練があった。今夜一晩あれば、何かを聞き出すことが出来るかもしれない。私はなんとか自分を納得させた。

 その夜は、寝室には行かず、彼女に向かい合った。しかし、どんなに夜が更けてもイーライは何も話さなかった。私は明け方になって、うとうとと眠りに落ちた。

 私は息苦しさに目を覚ました。イーライが私の首を絞めていたからだった。ただ、あまりにも彼女の力は弱かった。私は片手で彼女の身体を払い退けた。彼女の身体は風船のように軽かった。私は彼女に詰め寄り、部屋から追い出そうとした。
「どこにロケットを隠してる?」イーライは大声を上げた。「私は還れないのだ! ロケットがないと還れない」彼女は意味の分からない事をわめき散らした。私はこの女を部屋に入れたことを後悔しながら、彼女を戸口まで引き摺った。「お願いだ! 私をおまえのロケットに乗せてくれ! お願いだ」イーライは泣き叫んだ。

 外は雨が降っていた。私はイーライを戸外に放り投げ、ポーの詩集を彼女に向かって投げつけた。彼女は尚も泣き叫んでいた。私は窓からイーライの哀れな姿をしばらく眺めた後、ブラインドを降ろしてベッドに入った。

 翌朝、アパート付近を調べて回ったがイーライの姿はなかった。私は部屋に戻り、トイレに入って用を足した。タンクのレバーを引いて水を流した。もう少し力を入れてレバーを引くとレバーは一回転して隠し扉が開いた。小さな扉を背をかがめて通り抜けると発射台までの通路に出た。私はそこを歩きながら宇宙服に身を包んでいく。私はタラップを駆け上がる。ロケットの操縦席に乗り込むと一息ついて計器をチェックする。「このロケットは私だけのものだ」私はつぶやく。

 発射のボタンを押すと誰かがロケットの窓を叩いている。多分、大鴉がクチバシ使って叩いているのだ。私はそう思う。大鴉は羽ばたきをしながら大声で鳴き叫んでいる。その声はまるで女の泣き声のようだった。

posted by sand at 11:44| Comment(2) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

プレーンオムレツほどの幸福

Bob Acri.jpgオムレツ.jpg

「プレーンオムレツは作れますか?」と彼は聞いてきた。
俺は「うちはプレーンオムレツは扱ってないよ」と返事をした。彼は少し残念そうな顔をした。
「プレーンオムレツくらい家で作れば、いいじゃないか」と俺が言うと、彼は「そんなんじゃないんです」と言った。

 4月になって忙しい時期が近づいてきた。毎年この時期にバイトの募集をかける。今年は集まりが良かった。30件ほど問い合わせがあって、そのうち15人ほど面接した。

 彼は2日目の午後にやってきた。近所の大学の2年で柔道部だと言った。大きな身体をして垢抜けない顔をしていた。でも話してみると意外なほど良く喋った。俺は彼の屈託のない笑顔や真っ直ぐな視線に、次第に引き込まれていった。

「お父さんが自営で、最近、仕事がないんです。僕の奨学金使い込まれちゃって」と彼はいかにも楽しそうに言った。
「えー、それ大変じゃん」と言うと「そうなんですけど、仕方がないじゃないですか」と彼はまた楽しそうに言った。
俺も釣られて微笑みながら「そりゃ仕方ないけどね」と言った。

 それから彼はバイト代で、なんとかやり繰りしている様子を克明に喋った。かなり細かく話した。何百何十何円の何円単位まで話した。俺は彼の大柄な体格に似合わぬ几帳面さに舌を巻いた。彼は貧乏だったが、そこには従来型のウェット感が皆無だった。彼は自分の生活の克明な青写真を広げ、様々なアィデアで果敢に現状に挑戦する姿を嬉々として語った。家庭環境の不遇を嘆く姿は、少しも見当たらなかった。実際、そんなモノを嘆いても何も変わりはしなかった。

 彼の饒舌な語りの中でプレーンオムレツは唐突に登場した。
「プレーンオムレツならファミレスのバイトが良いんじゃない?」と俺は提案してみた。
「まあ、そうですね」
「どうしてプレーンオムレツ?」と俺は聞いてみた。
「いや。良いじゃないですかプレーンオムレツ」と彼は言った。
「まあ良いけどね。自分で作って食えよ」と言うと「いや、そうじゃなくてプレーンオムレツ食べて貰いたいじゃないですか」と言った。

 話が済んで彼が帰ると直ぐに女房がサンドイッチの入った袋を提げて飛んできた。目を真っ赤にしている。隣で伝票整理をしながら話を聞いていたようだ。「これ、プレーンオムレツじゃないけど渡して」と女房は袋を差し出した。

 俺は自転車に乗ろうとしている彼を呼び止めてサンドイッチを手渡した。彼は驚いて何度も何度もお礼をした。俺は「女房が食えってよ。俺は知らないけど」と言ったが、今年はコイツを採用することに決めていた。

 彼が帰った後、女房に「いいんじゃない?」と聞くと「いいと思うよ」と女房が言ったので話は決まった。

 幸せの単位をプレーンオムレツで表す事を少し考えてみた。「1プレーンオムレツ」だとか「200プレーンオムレツ」だとか。どんなに幸せでもプレーンオムレツに変わりは無いのだ。それでも朝起きた時に四つもプレーンオムレツが並んでいたら、ものすごく幸せに感じるのではないかと思ったりした。

posted by sand at 06:24| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

こんな夜に

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 月が出ていた。慌しかった時期が終わり、切りのついた夜だった。
ハム屋の屋台に寄ろうと思った。一区切りがつくと決まって、そこに顔を出していた。

 ハム屋の屋台はとても分かり難い場所にあった。とても人に説明など出来ない。
私はフラフラと、さ迷うように路地から路地を渡り歩いた。それは、ガード付近の小さな公園の横にあった。
とても小さな小さな公園で誰からも忘れ去られたような存在だった。

 ハム屋の屋台は、様々な種類のハムやソーセージが所狭しと並べられ、吊り下げられてあった。明るいライトに照らされた、それらのハムは宝石箱のように光り輝いて見えた。
ハム屋の店主は背の低い痩せた男だった。白いエプロンに丈の長いコック帽を被っていた。眉が薄く、鼻は獅子鼻で、少し前歯が出ていた。鼻の下に細長く髭をたくわえていた。
 猫背気味で、笑うと魔法使いのように見えた。

「いらっしゃい」ハム屋は歯茎をむき出して微笑んだ。この屋台で私の他に客の姿を見たことがない。その夜も私ひとりだった。
「久しぶり。ウィスキー貰おうか」私は椅子に腰掛けて背伸びをした。店主はEarly Timesをグラスに注いだ。
私はグラスを受け取ると、店主に軽く会釈して、その液体を流し入れた。

 店主はスライスしたてのサラミソーセージの皿を差し出した。「ハンガリーサラミです」店主は自信ありげに一言添えた。
まろやかでピリッとしたスパイスが効いた良いソーセージだった。「うまい」。私は感嘆の声を上げた。

 ハム屋の屋台は長く大きな河の流れを眺めるように、ゆっくりとゆっくりと時間が流れて行くように感じられた。
私は時々目を閉じて、時の渦を浮遊するように、その大きな流れに身を任せた。
 私は大きなため息をついた。ため息は私の口からこぼれると球体のガラス玉になってカウンターの上に落ちた。
その日の、ため息玉は青味がかった緑色をしていた。私はそのため息玉を手にとって、しばらく眺めた後、店主に差し出して「また捨ててくれないか」と依頼した。

 店主は顔をしかめて「あいにく今日はもう一杯なんです」と屋台の横に置いてある大きなゴミ箱を指差した。ゴミ箱には、蓋が閉まりきれないほど、色とりどりのため息玉が詰め込んであった。
「旦那さん。たまには奥さんに処分して貰いなさいよ」店主はニヤニヤ微笑んで言った。

 私は愚痴や弱音を妻には見せないように心がけていた。それが信念だとか男気だとか、そうゆうのではなくて、そういうモノを妻に見せるのが忍びなかった。本当につまらないモノだったからだ。

「奥さんもね。少しは待ってるものなんですよ。そうゆうモノであれ」店主はまだニヤニヤしていた。
「そんなもんかね」私は店主に言われるまま、ため息玉をポケットに入れた。

「そうそう。夫婦なんてものはね。おかしなものなんですよ。だって、おかしいじゃないですか、実際」店主は皿をキュキュと磨きながら話し続けた。

「おかしいかな?」私はサラミを頬張る。
「おかしいね」店主は手を止めて月を見上げた。そして「こんな夜は、特にね」と付け加えた。

 私も釣られて月を見上げる「こんな夜なら…仕様がないか」
一瞬だけ妻の顔がよぎった。見慣れた顔だ。だが、こんな夜なら、そうでもない。

posted by sand at 12:32| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月03日

Lonesome Reverie

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 アライグマ男は寝ていた。私は腰を下ろして彼が起きるのを待った。
窓からは、木漏れ日が差し込んでいた。遠くで誰かが釘を打つ音が聞こえていた。
ここは森の中のアライグマ男の家で、今日は日曜日だった。そして私はどんよりしていた。

 アライグマ男が起きる間に頭を整理しようとした。夫であったり、父親であったり、長男であったり、事業主であったり、様々な役割を引き受けていた。それで頭が混乱していた。どこかで立ち止まって考えようといつも思っていた。

 腰を下ろして考えをまとめようとしたが、何も浮かんでこなかった。何に混乱しているのか具体的には思い浮かばなかった。ただ漠然と混乱していた。情けないと自分を責めたりした。

 アライグマ男の家に立ち寄ったのは久しぶりだった。彼と会わない間に色々あったような気もするし、たいした事はなかったような気もする。実際あまり覚えていないのだ。思い出してみようとしても何も思い出せない。ただ漠然とした疲労が脳の中に広がっていた。

 確かなのは私が歳をとった事だけだ。歳をとると何か大切な事を、いつも忘れているような気がする。思い出せない大切な事が、どこかにあるような気がするのだ。

 アライグマ男はあの日のままだった。私と彼との歳の差は、ずいぶん縮まってしまった。もうすぐアライグマ男の年齢に追いついてしまいそうだった。それは少し寂しいことなのだが、今の私は長生きをしたいと思い始めていた。
 私は望んだ時にアライグマ男に会うことが出来た。いつでも私は彼の顔を見に行く事が出来た。ただ、アライグマ男が私に会いたいと思っているのかは分からなかった。

 少しも起きる気配がないので、冷蔵庫から缶ビールを失敬して飲んだ。テーブルの上にあったコーンフレークをポリポリと摘んで食べた。オーディオラックをアレコレ物色して、Nick Loweの『Dig My Mood』をかけた。最近の彼では一番気に入っていた。古いチェストの上に広げてあった缶バッチのコレクションを眺めながらビールを飲んだ。昔、思い描いていた夢がボンヤリと浮かんだが、形になる前に萎んで消えた。

 アライグマ男は急に上半身を起こして、むにゃむにゃと呟き始めた。寝ぼけているのだ。私は彼のそばに近づいて耳を澄ました。
小さな声で「たまごとうふ」と呟いていた。夢をみているのだろう。私は少し躊躇したが、彼を起こして夢から覚ますことにした。人の見る夢が羨ましかった。その夢がまぶしかったのだ。

 アライグマ男の両肩を抱いて彼を前後に揺すった。「おい。起きろよ」私は大きな声をだした。
アライグマ男は驚いたように両手を広げて私にしがみついた。そして私の耳元に「大好き」とささやいた。

 アライグマ男はバタンと仰向けに倒れて動かなくなった。眠ってしまったのだ。私は動揺していた。胸がドキドキした。多分、彼が大好きなのは「たまごとうふ」なのだが。

 私は慌てふためいて逃げるように彼の家を出た。扉を閉める時に彼が目を覚まさないようにソッと閉めた。
多分、目覚めないと思うけど。

posted by sand at 06:11| Comment(0) | 超短編小説・アライグマ男シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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