2005年12月06日

湖底の雫(前編)

Silence Is Easy.jpg
Starsailor / Silence Is Easy

 彼女は、厳冬の湖畔に立っていた。
水際にしゃがみ込み、痛いほど凍てついた湖水に手を伸ばす。

湖中から青白い指が浮かび上がり、彼女が差し出した指に触れる。
やがて、水上に湖底獣の蒼くヌラヌラと光る顔が現れる。

湖底獣は、サーカスのピエロのように今にも泣き出しそうな顔をしている。
実際、彼は泣いているのかもしれない。
ただ、湖底獣の身体はヌルヌルした粘膜によって覆われている。彼の身体は常時、濡れていたのだ。
故に彼の顔から滴る雫が、涙なのかどうかを見分ける事は不可能だった。

「寂しいんです。どうか一緒に湖底で暮らして頂けませんか?」
湖底獣は、水際の彼女に声をかける。

彼女は、疲れ切った顔を上げて、こう答える。
「いいわよ。私は、悪い男に騙されて犯罪に加担してしまった。ずっと警察から逃げ回っているわ。でも、もうお金も尽きたし、逃げる気力も無くなってしまった。
どうぞ、連れて行って下さいな」

湖底獣は、鬱蒼とした顔をパッと輝かせる「本当ですか!」

彼女は静かにうなずき、言葉を繋ぐ。
「二つだけ約束してくれるなら。
一つは、あなたの持ち物を全部、私にくれるって事。もちろん私も貴方に全てを捧げるわ。
もう一つ。私には年老いた父がいるの。長く入院している。1年に1度だけ、父に会う為に地上に返して欲しいのよ。そうすれば、貴方を決して一人にしないわ」

湖底獣は喜んで、うなずいた。

湖底獣の身体に触れていると、彼女の身体には膜が出来たみたいに、湖水の中でも楽に息が出来た。冷たさも感じなかった。水の抵抗さえなかった。
湖底獣と彼女は、水の隙間に潜り込む様に、湖底へと落ちていった。

湖底の岩場に洞窟があり、中に入ると広々とした空間があった。
不思議な事に、そこには空気が存在し、彼女は湖底獣の身体から離れても息をする事が出来た。洞窟の岩盤には、光を発する岩があり、ほのかな明かりを灯していた。

湖底の生活は、慈しみ溢れたものだった。

湖底獣は醜い姿と相反するように、純粋無垢な心を持っていた。
まるで産まれたばかりの赤ん坊のように彼の心には一点の曇りさえなかった。
世知辛い世の中で揉まれ続けて来た彼女には、湖底獣の心がオアシスに思えた。
ごく自然に彼女は、湖底獣を愛するようになっていた。

湖底獣は彼女の為に、琴のような楽器を奏でた。
その音は、今まで一度も耳にした事が無いような美しい音だった。深い深い哀しみと厳しく冷たい湖底の鼓動を封じ込めた、絹糸のように繊細な音だった。
彼女は、その調べを聴いて、心からの癒しを感じた。

湖底獣は、彼の母から譲り受けたと言う宝石を彼女に見せた。
それは、薄暗い洞窟の中でも眩しいほどの輝きを発する、考えられないほど大きくて青いサファイアだった。
「湖底の雫」。湖底獣の母は、そのサファイアを、そう呼んでいた。
彼女と湖底獣は、頬を寄せ合って、その輝きに見入っていた。
彼女は、無償の幸せを感じていた。どこの誰とも比べる必要のない幸福だった。

湖底では、静かに静かに時が流れていた。昨日であれ今日であれ、何の区分けも必要なかった。ただただ、穏やかで緩やかな一時だけが、訪れては去り、また訪れては去って行った。
彼女は時の流れを忘れていた。
でも湖底獣は彼女に、その事を告げた。湖底獣の心は純粋過ぎて、それを隠す事など出来なかったのだ。
「あれから1年が経ちます。あなたが地上のお父様に会われる時が来ました」
湖底獣の心は美し過ぎて、彼女を疑う事など出来なかった。

☆たいして面白くないけど長くなったので後編に続きます。
posted by sand at 04:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 超短編小説@ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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