2011年03月27日

さくら雨

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 横に並ぶと先生は、ずいぶん小柄に感じてオレは少し驚いた。雨上がりの路面は夕陽を映してキラキラと光っていた。先生の自転車カゴにはスーパーの買い物袋が乗せてあった。先生はその袋に手を差し入れて、オレンジを一つ取り出した。それをオレに手渡した時、細くて白い指先がオレの手の平に触れた。
 そこは住宅地を降りる坂道で、赤茶けた古い自動販売機のそばだった。立ち並ぶ建物の狭間に小さな港町が見えていた。オレの産まれた街だ。
 先生はオレの顔を覗き込んで「まだ早過ぎた」と言った。

 先生は去年の春に赴任してきた。オレのクラスの副担任になった。初めての経験だと震える声で言った。先生はずっと緊張しているようだった。何度も指先が震えるのを見た。それは1年が終わる頃になっても、あまり変わらなかった。先生はこのクラスというより社会そのものに馴染めないでいるように見えた。職員室の中にポツンと一人取り残された先生を何度か目にした。

 クラスの何人かの女の子が、それを察して手を差し伸べていた。オレも先生の痛々しさが目に余って、人目のない場所で何度か声をかけた。「大丈夫よ」と先生は大きな声をだした。そして心底ホッとしたような笑顔を見せた。

 進路指導はクラスの担任によって行われた。先生は担任に後ろの机に座って、その話を聞いていた。オレは担任の話を聞きながら先生と目が合った。先生は目を逸らさずオレを見つめていた。オレには担任の話は届かず、先生の視線だけが伝わっていた。 

 受験が終わりオレは都心の大学に行くために上京することになった。先生がオレに声をかけたのはスーパーの駐車場だった。先生の自転車には買い物袋が乗っていた。オレは母親の使いで買い物袋をぶら下げていた。
 先生と途中まで一緒に帰った。先生は自転車をおして、オレの横に並んだ。「恥ずかしいでしょ?」と先生は言った。オレは「いや。別に」と言ったが、本当は恥ずかしかった。

 卒業も終わり、オレは上京の準備を始めていた。先生は「時々声をかけてくれて助かった」とオレに言った。オレは「あまり思い詰めない方が良いよ」と言った。先生はうんと頷いた。それから話が続かなくなった。古い自動販売機のそばまで来た時、先生は思い出したように立ち止まってオレンジをオレに差し出した。そしてオレの顔を覗き込んで「まだ早過ぎた」と言った。

「ここから桜の木が見えるのよ。ここから見ると綺麗なんだ」先生はオレの顔の先にある公園の方向を指差した。そこは建物の切れ間になっていて、坂の下にある公園の桜並木が良く見えた。まだ3月で桜は咲いていなかった。先生はとても残念そうに桜の木を眺めていた。オレは先生の長いまつ毛や白いブラウスに目を奪われていた。

 上京後のオレは忙しかった。引越しやサークル、慣れない授業、新しいバイト。目まぐるしい日々が続いた。新しい友人が出来た。女の子と何度か遊びに行ったりした。それでも時々、先生の事を思い出した。
 イメージの中の先生は、花のない桜の木の前に立って、その木を一心に見つめていた。雨が降っていて先生の白いブラウスはグッショリと濡れていた。オレは後ろから先生の顔を覗き込むと、先生には顔がなかった。目と鼻と口のある場所には雨の雫が流れ落ちているだけだった。いつも同じイメージが沸いて来た。何度、卒業写真を見返してもイメージの中に先生の顔は戻らなかった。先生の表情は失われたままだった。

 いつか桜の咲く時期に、あの場所で先生に会えるのではないかと思い始めた。会って何を話せば良いのかオレには分からなかった。ただオレは心のどこかで、それを望んでいるように思えた。それがどんな思いなのか確かめたくもあった。

 春になってオレは友人より遅く帰省した。列車の窓から色づいてきた桜が見えた。実家から自転車に乗って、あの坂道に来てみた。誰もいなかった。オレは一人でそこから桜を眺めた。確かに綺麗な景色だった。でも、どうしてこの場所なのかは分からなかった。そこから見える桜は、あまりにも控えめで、ある意味、弱弱しかった。オレは桜を眺めながら先生を思った。震える指先や表情のない顔を思った。

 帰省して3日目の朝、雨が降った。オレは急いで自転車に乗った。坂の上まで来ると先生が傘をさして立っているのが見えた。オレは呼吸を整えて先生に近づいた。声をかけても先生は特に驚かなかった。「雨の日に、ここから見える桜が好きなんだ」
オレは先生の言葉に促されて坂下の桜を見下ろした。それは声を上げるほど綺麗な景色だった。昨日までの弱弱しさから一転して、生き生きとした力強さに溢れていた。雨は、桜の持つ本当の強さをあらわにしているようだった。「下まで歩こうか」先生は先に立って歩き出した。オレは自転車をおして、横に並んだ。話らしい話はなかった。けれど、言葉にはならない強い繋がりのようなモノをオレは感じていた。オレはこの人を愛しているのではないかと、その時、分かった。

 公園に着くと満開の桜が雨に打たれていた。やわらかな風が吹いて、雨粒がオレの頬を濡らした。オレは今、気がついた思いを伝えたくて、その人を呼び止めた。「先生」
 先生は、笑顔で振り返って、こう言った。「先生は、もう卒業しようか。ユリコでいいよ」

 空から桜の雨が落ちてきた。それは誰を濡らすのだろう?
愛というモノがどんなモノなのか、オレには分からなかった。それがどんな力を持ち、どんな優しさや癒しや強さを持つモノなのか。

 ただ、もしそれが雨に似たモノであるのならば、この地に生き続ける限り、それに濡れていたい。それに包まれていたいと、その時、思った。

posted by sand at 09:08| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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