2011年04月09日

こんな夜に

soultrane.jpg

 月が出ていた。慌しかった時期が終わり、切りのついた夜だった。
ハム屋の屋台に寄ろうと思った。一区切りがつくと決まって、そこに顔を出していた。

 ハム屋の屋台はとても分かり難い場所にあった。とても人に説明など出来ない。
私はフラフラと、さ迷うように路地から路地を渡り歩いた。それは、ガード付近の小さな公園の横にあった。
とても小さな小さな公園で誰からも忘れ去られたような存在だった。

 ハム屋の屋台は、様々な種類のハムやソーセージが所狭しと並べられ、吊り下げられてあった。明るいライトに照らされた、それらのハムは宝石箱のように光り輝いて見えた。
ハム屋の店主は背の低い痩せた男だった。白いエプロンに丈の長いコック帽を被っていた。眉が薄く、鼻は獅子鼻で、少し前歯が出ていた。鼻の下に細長く髭をたくわえていた。
 猫背気味で、笑うと魔法使いのように見えた。

「いらっしゃい」ハム屋は歯茎をむき出して微笑んだ。この屋台で私の他に客の姿を見たことがない。その夜も私ひとりだった。
「久しぶり。ウィスキー貰おうか」私は椅子に腰掛けて背伸びをした。店主はEarly Timesをグラスに注いだ。
私はグラスを受け取ると、店主に軽く会釈して、その液体を流し入れた。

 店主はスライスしたてのサラミソーセージの皿を差し出した。「ハンガリーサラミです」店主は自信ありげに一言添えた。
まろやかでピリッとしたスパイスが効いた良いソーセージだった。「うまい」。私は感嘆の声を上げた。

 ハム屋の屋台は長く大きな河の流れを眺めるように、ゆっくりとゆっくりと時間が流れて行くように感じられた。
私は時々目を閉じて、時の渦を浮遊するように、その大きな流れに身を任せた。
 私は大きなため息をついた。ため息は私の口からこぼれると球体のガラス玉になってカウンターの上に落ちた。
その日の、ため息玉は青味がかった緑色をしていた。私はそのため息玉を手にとって、しばらく眺めた後、店主に差し出して「また捨ててくれないか」と依頼した。

 店主は顔をしかめて「あいにく今日はもう一杯なんです」と屋台の横に置いてある大きなゴミ箱を指差した。ゴミ箱には、蓋が閉まりきれないほど、色とりどりのため息玉が詰め込んであった。
「旦那さん。たまには奥さんに処分して貰いなさいよ」店主はニヤニヤ微笑んで言った。

 私は愚痴や弱音を妻には見せないように心がけていた。それが信念だとか男気だとか、そうゆうのではなくて、そういうモノを妻に見せるのが忍びなかった。本当につまらないモノだったからだ。

「奥さんもね。少しは待ってるものなんですよ。そうゆうモノであれ」店主はまだニヤニヤしていた。
「そんなもんかね」私は店主に言われるまま、ため息玉をポケットに入れた。

「そうそう。夫婦なんてものはね。おかしなものなんですよ。だって、おかしいじゃないですか、実際」店主は皿をキュキュと磨きながら話し続けた。

「おかしいかな?」私はサラミを頬張る。
「おかしいね」店主は手を止めて月を見上げた。そして「こんな夜は、特にね」と付け加えた。

 私も釣られて月を見上げる「こんな夜なら…仕様がないか」
一瞬だけ妻の顔がよぎった。見慣れた顔だ。だが、こんな夜なら、そうでもない。

posted by sand at 12:32| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。