2011年06月12日

幸福な質問

Waiting for Sun.jpg
The Doors / Waiting For The Sun

 男が部屋に入ってくる。髪や服は乱れ、少し酔っている。
男は乱暴に上着を脱ぎ捨てるとベッドに身体を投げ出す。しばらく呼吸を整えて上半身を起こすと携帯電話を取り出し、しばらくの間、考え込む。

 やがて男は首を振って立ち上がり、携帯を置くとバスルームに向かった。男のいる部屋は標準的なビジネスホテルだった。
シングルベッドに書き物机。ベッド脇には電気スタンドと数枚のメモ用紙、それにボールペンが添えられていた。狭いバスルームに姿見が一枚。小さな窓からは隣のビルの壁しか見えなかった。

 シャワーを浴びた男がベッドに戻ってきた。男は時間を確認する。午後の9時。もう一度、携帯を握りコールを鳴らした。数コールで女が電話に出た。若い女だった。
男は一瞬躊躇する。しかし男は構わず声を発する。「俺だよ。お父さんだ」

 お父さんと名乗る資格がないことを男は充分理解していた。しかし、そう名乗るのが手っ取り早い方法だった。離れて暮らしてはいるが、男が彼女の父なのは間違いのない事だった。
電話口の若い女は声を詰まらせたが、やがて「ああ」と曖昧な返事をした。
「近くまで来ているんだ。お母さんに代わってくれるかい?」男は早口で言った。
「お母さん。今、出かけてる。今日は遅くなるって」若い女は答えた。

 男は少し落胆したが、久しぶりに娘の声が聞けて安心していた。「そうか。じゃあ、また電話するよ。お前の声が聞けて良かったよ」男は電話を切ろうとした。
「あ。近くに来てるって何かあったの?」意外にも娘は話を続けた。離婚してから元妻は、娘と男が二人だけで会話をするのを許さなかった。しかし娘も二十歳を過ぎていた。彼女は自発的に行動を起こせる歳になっていた。

 男は今日の葬儀の話をした。亡くなった親戚は、彼女も何度か顔を合わせていた。「そうなんだ。叔父さん亡くなったんだ」娘は寂しそうな声を出した。妻と別れることで様々な縁が寸断されて行った。男には、それらを引き受ける覚悟があった。男が選んだ道だったからだ。でも娘にはそれを強いることは出来なかった。長い時間をかけて現実を受け入れて貰うしか他に方法がなかった。

「大学はどうだい? 楽しいかい?」男は話を変えて聞いてみた。娘は大学生活の話をしてくれた。男はとても嬉しかった。もう娘と話をすることなど諦めていたからだ。「そうか。頑張れよ。力になれることがあったら言って欲しいんだ。お前にその気持ちがあるのなら」男は娘の話に耳を傾け、娘が安心できる言葉を選んで返した。

 男は元妻の気持ちを考えると、長話をする事は出来なかった。適当な話の切れ目で電話を切ろうとした。
「あ、ちょっと待って。今、ホテルにいるの?」娘は意外な質問を始めた。
「ああ。いるよ」男は答えた。
「今、受話器を持っているのは左手?」娘の質問は続いた。
「そうだ。左手」男は左手に携帯を持っていた。

「じゃあ。右手にペンを持ってる?」
「…そうだ。確かに持ってる」男は驚いた。自分でも気が付かない間にホテルに備え付けのボールペンを握り締めていたからだ。

「そのペンで何か走り書きしているよね? 英語の文字でしょ?」
娘の言葉に間違いなかった。男は無意識のうちにメモ用紙に走り書きをしていた。たぶん昔からそんな癖があったのだと思う。娘とまだ一緒に暮らしている時から。
メモ用紙には簡単な英語の文字が書き込まれていた。大昔に流行ったヒット曲のタイトルだった。娘が産まれる、ずっと前に流行った曲だった。

「そうだ。ここに、なんて書いてるのか、わかるのかい?」今度は男が娘に質問した。
「わかると思うよ。昔、私がお父さんと呼んでいた人だったら、そこには『Hello, I Love You』と書いてる」

 男は唇を震わせて「そうだ。当たりだよ」と答えた。そして、電話を切った後も、ずっと、その言葉をペン先でなぞった。

☆超短編小説会さんの同タイトルに参加したお話です。





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posted by sand at 06:09| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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