2011年06月25日

Avenue of Stars(接続詞の探し方)

Andromeda Heights.jpg
Prefab Sprout / Andromeda Heights

 僕は夜の病院に忍び込んだ。裏庭に回ると植え込みの陰に、人が立っているのが分かった。彼女だ。夏の星座に照らし出された彼女は、この世の者とは思えないほど綺麗だった。実際、彼女は違う世界に住んでいた。僕らが暮らす世界とは、僅かに違っていたのだ。

 精神に疾患を抱えた母の入院生活は、実社会とは隔離されたものになった。母は拘束されることさえ無かったが、外出等を厳しく制限された規則正しいサイクルに身を置くことで社会復帰を目指していた。母の入院した病院は、小高い丘の上にあり四方を緑の芝生に囲まれていた。僕は授業が休みになると、都心部から離れた場所にある病院まで、列車を乗り継いで面会に訪れた。母との面会は気の重くなる務めではあったが、僕にはそれとは別に、ささやかな楽しみがあった。母といつも一緒にいる入院患者の女の子と会えるからだった。
 彼女は恐らく僕と同年代で(少し年上かもしれない)まるで人形のような美しい顔をしていた。何もかもが選りすぐられたように見事に整っていた。長い睫毛、大きく見開かれた瞳、ほっそりとした高い鼻、薄く哀しみを湛えた唇。だがそれらが、あまりに整いすぎているが故に、彼女の美貌は現実から遊離しているかのように感じられた。

 彼女には表情というものが見当たらなかった。いつも無表情で煙草を吸っているだけだった。
僕が母の面会に訪れると彼女は決まって母の隣に座って煙草を吸っていた。「やあ元気かい?」僕は暗い声で母に声をかける。「ああ、元気だよ……」母はまるで魂の抜けた死人みたいな表情で、他人事のように答えた。僕はその顔や声を目の当たりにすると、やり切れない気持ちになった。
それから僕らは、ひどく間延びした臨場感の無い面会を神妙にこなして行った。母は朦朧とした表情で煙草を吸い続け、時折、思い出したように僕に話しかけた。僕はそれらの質問に辞書を引くように慎重に言葉を選んで答えを返した。母を傷つけたくはなかった。というのも、それは新たな問題を僕自身が抱えることになるからだ。僕は、母はともかく、母の病気にはこれ以上関わりたくはなかったのだ。

 彼女は母に寄り添うように座って、僕らの会話をぼんやりと聞き入っているようだった。僕は彼女の美しさにドキドキしながらも、どこかで怖さを感じていた。それは彼女の美貌に対してであり。彼女の病気に対してであった。
 彼女は終始無表情ではあったが、そのどこかに僕に対する好意のようなものを感じていた。それは彼女の目の動きや顔の表情や指先の動きに表れているような気がした。自惚れかもしれないが、僕はその事に僅かな優越感のようなものを抱いていた。彼女のような美い人は、僕には縁遠い存在だったからだ。
そして、それは程なく現実のものとなった。非現実な現実となった。

 それは母がトイレに立ち、僕と彼女が二人きりになった時に起こった。
「私、あなたが好き」彼女はいつもの無表情で、そう切り出した。僕はとても狼狽した。それは彼女の病気が言わせているのか、本来、彼女はそういうタイプの女性なのか判断出来なかったからだ。もちろん僕は安全策を取った。「どうも、ありがとう」僕はそう言って彼女から視線を外し、テーブルに置かれたコーヒカップを眺めた。彼女の言葉はそれ以上続かなかった。そして僕もそれ以上の返事は用意していなかった。

 二度目にそれが起った時、僕と彼女は並んで歩いていた。
母との面会を済ませた僕は、バスの停留所に向かっていた。彼女は後から小走りにやってきた。「歩ける?」彼女は僕に追いついて言った。僕はうなずいた。
 病院の敷地内にある緑の芝生を、僕らは並んで歩いた。「良い天気ね」彼女は歩きながら空を見上げた。良く晴れた空から爽やかな風が吹き抜け、彼女の長い髪を揺らしていた。 僕には彼女と話すべきことは何もなかった。僕はただここに来て、そして帰って行くだけなのだ。その気持ちと相反するように僕は彼女と歩いていたかった。妖精のような美女と、ただ歩いていたかったのだ。初夏の陽射しを受けた彼女の横顔は薄っすらと微笑んでいるように見えた。彼女は、ごく普通の女の子だった。実際、そうなのだ。実際、夢みたいに魅力的な女の子だったのだから。

「今夜10時に、この場所で待っている。あなたと星空が見たい」彼女は、それだけ言い残すとスタスタと病棟に戻って行った。


 裏庭に回ると植え込みの陰に人が立っているのが分かった。彼女だ。夏の星座に照らし出された彼女は、この世の者とは思えないほど綺麗だった。僕は彼女の横に寄り添った。
 彼女は僕の顔を見ることもなく、夜空を見上げたまま話し始めた。それは彼女の身の上話と言えるものだった。ここでの生活、病気の具合、家族の事、友人の事、学校の事、将来の夢、そして不安……。彼女の話は途切れる事なく続いていった。やはりそれは一方的で会話と呼べる種類のものではなかった。
 僕はしばらく彼女の話に耳を傾けた後、彼女の話の中には決定的に足りない物がある事が分かった。
 彼女の話には『接続詞』が、まったく含まれていなかった。

 彼女の話は、ふわりと舞い降りるように始まり、次第に熱を帯び、感情の昂ぶりを見せ、やがて沈静し、最後は沈み込むように消えていった。それらが波を打つように繰り返された。だが一つ一つの話には、不可解なほどに関連性が見られなかった。彼女の身体からは無数の糸が振り撒かれるのだが、それらはどれもブツ切れで、そのどれとも繋がってはいなかった。それ故、その話が彼女を理解する為ものにはなりえず、益々、不可解な存在へと導いているのだった。彼女は話せば話ほど、理解を求めれば求めるほど、彼女以外の人間との接続が不可能な状態だった。
 彼女の苦悩や不安や夢は、塵のように飛散するだけで、他の誰とも結び付くことは無かった。それは、とても残酷な事のように思われた。

 長い時間、話し続けた後に、彼女は疲れたように無言になった。僕は、いくらかホッとした気持ちで星空を見上げた。夜空に瞬く星々は恐ろしいほど難解な構文を眺めるように複雑に絡み合っているように見えた。もつれ合っているように見えた。
 気がつくと彼女の顔は、僕の胸の中にあった。

 それから彼女は、初めて僕に意見を求めた。「私の頭の中は壊れてしまったの?」
僕は、その言葉を聞いて胸が熱くなった。
「違うんだ。君は『接続詞』を失くしただけなんだ。君も僕の母さんも『接続詞』を見失っただけなんだ。そして、それはきっと見つかる。いつかきっと見つかる」僕は、僕の胸の中で震えている彼女に、そう言った。でも、それは真実じゃない。真実は、そんなにロマンチックでも夢見心地でもない。彼女はシリアスな病気を抱えているのだ。残酷なほどに彼女の一生を食い尽くそうとしている凶悪な病気をだ。彼女も彼女の家族も、その重みを一生背負い込んで生きていくのだ。僕の母が、そうであるように。

 それでも僕は、それを信じたかった。彼女や僕の母が見失った『接続詞』が、この星空の中に紛れ込んでいる事を。この入り乱れた星屑の中で見失ってしまった事を。
 そしていつか、この星空の混乱が解けた時、それは彼女たちの元へと返されるのだ。

 『そして』



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posted by sand at 13:04| Comment(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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