2006年08月29日

アンモニアの花束(シドに)

夜明け.jpg 
ピンク・フロイド / 夜明けの口笛吹き

 目を開くとリノリウムの床が見えた。

 その床の上には水溜りが出来ている。
やがて強い匂いが鼻腔を襲ってきた。アンモニアだ。
水溜りからはアンモニアの匂いが放たれている。

 その時、僕は、ようやくその意味を解した。母だ。
母が僕の寝ている床の上に小便をしたのだ。


 母は、ある朝、突然狂ってしまった。
そこに至る過程は全て省略され、結論だけが放り投げられた。

 その日から母にはもう一人の人格が産まれた。
母はその人格とだけ会話した。母はその人格をひどく恐れた。
彼に服従し、自身と第三者(一般的に身体と人格を持つ人間)を傷つけた。

『狐憑き』
親戚縁者は口々にそう捲し立てた。
実際、母はその日以来(病院に入るまでの半月あまり)一睡もしなかったし、脅威的な脚力(男でも追いつけないほど速く走った)跳躍力(二階家の屋根から軽々と飛び降りた)耐久力(走っている車のドアを開け、道路に飛び降り、そのまま数百メートル逃走した)を有していた。

『悪魔払い』
それが当時両親と一緒に会社を運営していた僕に課せられた任務となった。
霊媒師や祈祷師の元に母を連れて、あちこちと訪ね歩いた。だが、そのどれもが母をエサに金品を巻き上げようとする詐欺師だった。
「助かりたいのなら、この仏像を買いなさい。300万で助かるのだから安いものだ」
彼らは判で押したように同じような台詞を並べた。僕には彼らの顔こそが悪魔に見えた。

 父や親戚筋は母を人目にさらすのを恐れた。田舎の町だったのだ。
母は二階の小部屋に幽閉され、僕は母が逃走しないように見張り役を担わされた。
 母は何度も窓から飛び降り、川や山の中に逃げ込もうとした。
僕は母の顔が醜く張れ上がるまで殴りつけ、ロープで縛り上げて蹴りをいれた。
 僕は疲れていた。このままでは母を殺してしまいそうだった。


 その日の夜明け前、僕と何人かの男達は、母に猿ぐつわを噛ませ、ロープで縛り上げて人目につかぬ様に車に押しこんだ。
 車は病院を目指した。「出来るだけ遠くの病院に行け」父は鬼のような形相で僕らに伝えた。
父もまた病に蝕まれていたのだ。

 病院に着いた母は激しく暴れた。何人もの病院スタッフが母を取り押さえた。
母は象に使うような太い麻酔の注射を打たれ、ようやく眠りに落ちた。

 母が収容された部屋は重症の患者が入る鉄格子のついた監禁部屋だった。僕は志願して一晩だけ母と一緒にその部屋に泊まる事を申し出た。僕は母に罪の意識を感じていた。
母をここまで追い詰めたのは僕らなのだから。

「まあ、良いでしょう。多分、今夜は眠っていると思いますし」
病院のスタッフは渋々それを許可した。

 鉄格子の中に患者達の呻き声や叫び声が木霊してきた。僕は、その声に身体を震わしながらベッドで眠っている母の横に寄り添っていた。
この目蓋がもう一度開いた時、母がもう一度、僕の名を優しく呼んでくれたなら。
僕はその事だけを祈り続けた。

 それから暫くして、僕は崩れるように眠りに落ちた。疲れていた。これ以上ないほどに…。


 目を開くとリノリウムの床が見えた。

 その床の上には水溜りが出来ている。
やがて強い匂いが鼻腔を襲ってきた。アンモニアだ。
水溜りからはアンモニアの匂いが放たれている。

 その時、僕は、ようやくその意味を解した。母だ。
母が僕の寝ている床の上に小便をしたのだ。

 母は窓枠に寄り添うように立っていた。
夜明け前の青白い明かりが母の横顔を照らしている。
母は穏やかな顔つきで、浅く、うつむいている。そんな穏やかな顔を見たのは久しぶりだった。
僕は涙が出るほど嬉しかった。母の横顔は菩薩のように美しかった。
「お父さんと○○ちゃん(僕の名前)と〇〇ちゃん(弟の名前)を守らなきゃ。私が守ってあげなきゃ」
母は甘えたような声でゆっくりと言葉を発した。

 それから小脇に抱えたテイッシュペーパーの箱から何枚か紙を抜き出し、クルクルと花の形に整えた。
その紙の花をしゃがみ込んで自分の排泄した小便の水溜りに浮かべた。
紙の花はみるみる黄色に染まっていった。

 母はその黄色い花を床から拾い上げると窓枠の上にソッと置いた。
鉄格子の張られた鋼鉄の窓枠に黄色い花がヒッソリと咲いた。僕はその情景の美しさに打たれた。
打ちのめされた。身動き出来ないほど。

 それから母はその行為を繰り返し、窓枠に黄色い花を咲かせ続けた。
アンモニアの香る美しい花は、幾輪も幾輪も咲き誇った。

 僕にはその情景が奇跡にも救済にも儀式にも祈りにも思えた。

 母は狂気の中にいる。でも、その狂気は夢でも幻想でも浪漫でも無かった。
苦痛だ。肌を切り刻み、肉を引き裂き、骨を砕く苦痛と共にあった。なにもかもリアルな現実だ。
だが、それが為に、それが苦痛の中に浮かんでいるからこそ、その狂気は美しかった。人の心を粉々に砕くほどに美しかったのだ。

 母の背後に、まるで新しい世界の幕開けのように夜明けが訪れた。
そして僕は誰かが吹き鳴らす口笛の調べを待っていた。




★シドが死んだ時に思いついて書く時間がなかった話しです。長過ぎました。次は「象が舞い降りる日」というのを書く予定です。出来れば。


posted by sand at 18:19| Comment(4) | TrackBack(0) | 超短編小説C | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
sandさん、傑作!
sandさん版「薔薇の奇跡」ですね。感動しました。
アライグマ男の絶妙のしんみりほんのり加減もブラボーで、いつもながら素晴らしいです・・・(余韻)。

「夜明けの口笛吹き」は、ライナーによるとヴェルヴェッツの「バナナ」と同じ年の発売みたいですね。傾向は違うけど、共通項は「トランス感覚」でしょうか。時代の空気を感じます。「マチルダ・マザー」の間奏なんて、本当にトランス風味でたまらないです。あと、一本調子好きとしては「バイク」がイイな〜♪

「ナイト・ピープル」聴かれたんですね!
あの、全編に漂ういかがわしさが好きなんですよ〜、私。
Posted by 志穂美 at 2006年08月30日 13:45
どうも。どうも、いつも読んで頂いて、ありがとうございます!気に入って頂いたようで、良かったです。ホントに嬉しいので、また、お願いします。
志穂美さんも何か書いてくださいよ〜。

口笛吹とバナナは同じ年の発売でしたか。そう言われてみると、そうなんだな〜と思いますね。
フロイドはギルモアとウォーターズ(あとリックも加えたい)時代が好きだったので、シドは本当に最近になって聴くようになりました。
口笛吹はいつ聴いても感情移入出来ないで、ヨソヨソしい感じがします。それはバナナも一緒だけど。

なんかどちらも『わかって欲しくない』って所ありませんかね?ま、そこがいつまでたっても古びない理由ですかね。あ、もちろん、自分にとってはって事ですね。

>一本調子好きとしては「バイク」がイイな〜

これは志穂美さん用の曲ですね(^O^)一聴して分かりました。

>全編に漂ういかがわしさが好きなんですよ

これまた志穂美さん用のいかがわしさですね(^O^)
なんか騙された気になるんですよね(志穂美さんじゃなくて、サルソロ。だっけ?)
Posted by sand at 2006年08月30日 17:46
引越しからあけて急にペースあがっちゃって大変な事になってますね〜
シドが亡くなって私も一杯書いたよ・・・
もうだいぶ前だからね!(爆、SORRY)
シドが亡くなったこと知る前に
私のBLOGの記事にシドが現れたんですよ(爆)

今年の夏は色んな事がありました・・・
うちのBLOGは気にせんでいいですからね。
Posted by evergreen at 2006年08月31日 22:48
こんちは。
ペース上がってませんが、少しは書こうかと思いまして。もうマイペースでボチボチです。

>シドが亡くなって私も一杯書いたよ・

死んだ時の一本は読みましたよ。後のは読んでないかも?あとで探してみます。

>私のBLOGの記事にシドが現れたんですよ

現れましたか!さすが英国ロックの求道者。
私は黄疸が現れてます(肝臓悪いわ)
Posted by sand at 2006年09月01日 16:14
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。