2006年11月28日

ニヤリ

Marc Benno.jpg
Marc Benno / Minnows

☆今日は超短編小説会さんの同タイトルに投稿用です。以前、書いたのを圧縮したものです。

 彼女は厳冬の湖畔に立っていた。
水際にしゃがみ込み、凍てついた湖水に手を伸ばす。
 湖中から青白い指が浮かび上がり、彼女が差し出した指に触れた。やがて湖面に蒼くヌラヌラと光る湖底獣の顔が現れた。湖底獣は、サーカスのピエロのような顔をしていた。彼の顔は泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「寂しいんです。どうか一緒に湖底で暮らして頂けませんか?」湖底獣は、水際の彼女に声をかけた。

 彼女は、疲れ切った顔を上げて答えた。
「いいわよ。私は悪い男に騙されて犯罪に手を染めてしまった。ずっと警察から逃げ回っていたわ。でも、もうお金も尽きたし逃げる気力も無くなってしまった。どうぞ連れて行って下さいな」湖底獣は、鬱蒼とした顔をパッと輝かせた「本当ですか」
 彼女は静かにうなずき、言葉を繋いだ。
「二つだけ約束してくれるなら。一つは、あなたの持ち物は、全部、私の物に出来るという事。もう一つ。私には年老いた父がいるの。長く入院している。1年に1度だけ、父に会う為に地上に返して欲しいのよ。そうすれば貴方を決して一人にしないわ」湖底獣は喜んで、うなずいた。

 湖底獣の身体に触れていると、彼女の身体には膜が出来たみたいに、湖水の中でも楽に息が出来た。冷たさも感じなかった。水の抵抗さえなかった。湖底獣と彼女は、水の隙間に潜り込む様に、湖底へと落ちていった。
 湖底には洞窟があり、中に入ると広々とした空間があった。不思議な事に、そこには空気が存在し、彼女は湖底獣の身体から離れても息をする事が出来た。洞窟の岩盤には、光を発する岩があり、ほのかな明かりが灯されていた。

 湖底の生活は、慈しみ溢れたものだった。
湖底獣は醜い姿と相反するように、純粋無垢な心を持っていた。まるで産まれたばかりの赤ん坊のように彼の心には一点の曇りさえなかった。世知辛い世の中で揉まれ続けて来た彼女には、湖底獣の心がオアシスに思えた。ごく自然に彼女は、湖底獣を愛するようになっていた。
 湖底獣は彼女の為に、琴のような楽器を奏でた。その音は、今まで一度も耳にした事が無いような美しい音だった。深い深い哀しみと厳しく冷たい湖底の鼓動を封じ込めた、絹糸のように繊細な音だった。彼女は、その調べを聴いて心からの癒しを感じた。

 湖底獣は、彼の母から譲り受けた宝石を彼女に見せた。それは、薄暗い洞窟の中でも眩しいほどの輝きを発する、考えられないほど大きくて青いサファイアだった。「湖底の雫」。そのサファイアは、そう呼ばれていた。彼女と湖底獣は、頬を寄せ合って、その輝きに見入っていた。彼女は無償の幸せを感じていた。どこの誰とも比べる必要のない幸福だった。
 湖底では、静かに静かに時が流れていた。昨日であれ今日であれ、何の区分けも必要なかった。ただただ、穏やかで緩やかな一時だけが、訪れては去り、また訪れては去って行った。彼女は時の流れを忘れていた。だが湖底獣の心は純粋過ぎて、それを隠す事など出来なかった。湖底獣は彼女にその事を告げた。
「あれから1年が経ちます。あなたが地上のお父様に会われる時が来ました」
湖底獣の心は美し過ぎて、彼女を疑う事など出来なかったのだ。

 彼女は、湖底獣に手を振って湖畔を取り囲む森の中に消えていった。湖底獣は、湖面に顔だけを浮かべて彼女の姿を見送った。彼女の無事を祈り、彼女を待つ事が出来る自分に幸福を感じていた。

 それから湖底獣は、毎日毎日、何度も何度も湖底を離れ湖面から顔を出して彼女の帰りを待った。雪の日が続き、湖面に薄っすらとした氷の膜が覆った。ある時には激しい風雪が襲った。湖畔の周囲に広がる森林に鮮やかな雪化粧が施された。
 やがて太陽は高い高い場所から、燦燦と湖畔を照らし、雪解けの時が訪れた。
彼女は戻らなかった。
 湖底獣には彼女を疑う事が出来なかった。人の心が変わってしまう事など、彼には想像すら出来なかった。湖底獣は彼女を愛していた。その想いは日増しに強くなって行くようだった。あまりに強い想いから、湖底獣の身体は引き裂かれてしまいそうだった。
 湖底獣は、彼女の身を案じた。彼女の苦痛に身を震わせた。そして陸に上がる事すら出来ない自身を攻め続けた。それでも湖底獣は、彼女を待つ事が出来る、その尊さを痛感していた。愛する人がいて、その人を待てる。それは何よりも湖底獣を強くした。その想いが湖底獣を奮い立たせた。
 季節が夏に差しかかる頃、湖底獣は棲家の洞窟から、青いサファイア『湖底の雫』が消え失せている事に気がついた。多分、彼女が持ち出したのだろう。湖底獣は、その事に何の疑いも持てなかった。それが何を意味するのかさえ、彼には推し量る事が出来なかったのだ。

 夏が終わり、森の木々が色づく頃になっても、彼女は戻らなかった。
湖底獣は、いつものように湖畔に顔を浮かべて彼女を待っていた。彼女がいつか現れる。その事を信じ続けることには、今まで彼が犯した全ての罪(彼自身が罪だと感じている事柄)を帳消しにしてしまうような、強い強い力が備わっていると感じるようになっていた。
彼は彼女を信じ続ける事で、彼自身から自由になれるような気がしていた。彼女の存在が、彼を解き放つ事が出来る。そんな気持ちを感じていた。

 季節は一回りし、厳しい冬が再び訪れようとしていた。
その日の朝、森の枝をかき分けて、彼女は遂に湖畔に戻ってきた。
 細かい霧のような雨が、彼女の厚手のレインコートを濡らした。彼女は、毛布の包まれた何かを大事そうに抱えていた。
「ごめんなさい。待たせたわね」彼女は水際まで降りてきて、湖底獣に声をかけた。湖底獣の発した返事は、感激のあまり言葉にならなかった。
 彼女は湖底獣に向かって抱えていた毛布に包まれた物を差し出しだ。
青い顔をした赤ん坊だった。「貴方の子供よ。一人で産んだの。大変だったんだから」彼女は笑って言った。
 湖底獣は、我が子を抱きかかえて喜びに震えた。
「良かったわね。これで一人じゃなくなったわね」彼女は、そう言うと水際から少しづつ後退りして行った。
 彼女は、水際から離れた場所に立って言った。
「もう貴方は孤独じゃないのよ。だから私は行くわ。あの宝石は、信じられないくらい高値で売れた。そのお金で過去を清算したの。お金さえあれば、それ程の罪じゃなければ清算できるのよ。私は、お金で解き放たれたって訳ね。
 これから楽しく暮らさせてもらうわ。使いきれないほど、お金が残っているの。貴方はウソを付かない人だった。私も自分の欲望にウソをつかないわ。
良い?これはハッピーエンドよ。少なくとも地上では、そう呼ぶわ。じゃあ。」
 そう言い残して、彼女は森の中に足早に消えてしまった。

 湖底獣は、自身の子供を抱きかかえて湖面に佇んでいる。
サーカスのピエロのような顔を、さらに歪めて。
 彼は泣いているのかもしれない。だが、その顔はニヤリとした微笑みにしか見えなかった。


posted by sand at 19:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 超短編小説C | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 自分は湖底獣なのか?女なのか?生まれた子どもも本当に湖底獣の子どもかどうかわからないけど、子どもを連れて行ったということは彼女を愛していたようで、実はただ存在として愛していただけで、それは誰でもよかったのでは?そう考えると、湖底獣の美しい心は実は演技によって作り出されたものだったのでは?なんて考えていました。
 なぜかピートシンフィールドのスティルのジャケットを思い出しています。
Posted by ITORU at 2006年11月28日 21:00
まいどです。いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

今回は以前書いたのにオチだけ今回のお題『ニヤリ』を入れてみたら、意味合いが反転して面白いかな?って思って再加工してみましたが、ちょっと強引だったみたいです。元々暗くて救いの無い話しが益々暗黒になってしまいました。

ご感想ありがとうございます。このお話しのベースの部分は去年書いたのですが、多分イラク戦争のアメリカ側の(強引なる)正当性をダブらせていたような気がします。
今となっては、ちょっと意味合いが違うかもしれません。

>ピートシンフィールドのスティルのジャケット

うんうん。これは良いですね。そのものズバリです。
Posted by sand at 2006年11月29日 17:23
これは元の作品読んでなかったです。
裏切る女の「ハッピーエンド」というセリフが凄いなあ。カネで解決ってのは、羨ましい。とにかく、吹っ切れているのは、羨ましい〜〜
極私的感想へと暴走しとりますが、結局湖底獣も、自分が一番可愛いのかも知れないなあ。
おっと、つまらんことウダウダ並べる前に退散します。
食べ散らかし的感想ですみません。

Posted by ring-rie at 2006年11月29日 21:50
まいど。遅れました。
湖畔で待っていました。沖雅也。涅槃でも湖畔でも待ちますわい!

>吹っ切れているのは、羨ましい

ドロドロの女が言ってますね〜。ドロドロも、また羨ましい。

>自分が一番可愛いのかも知れないなあ

ギク!湖底獣は私です。

で、なんでしょう。寒いですね。寒くて手がかじかんでキーボード打てませんでした。と言うのはウソです。何もかもウソ。
Posted by sand at 2006年12月03日 14:20
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