2007年01月13日

Andromeda Heights(接続詞の探し方)前編

Andromeda Heights.jpg
Prefab Sprout / Andromeda Heights

 僕は気乗りのしないまま、夜の病院に忍び込んだ。『どうせ誰かに見つかるはずだ』と僕は考えていたが、あいにく、その日は誰にも見つかることがなかった。裏庭に回ると植え込みの影に人が立っているのが分かった。
 彼女だ。冬の星座に照らし出された彼女は、この世の者とは思えないほど綺麗だった。実際、彼女は違う世界に住んでいた。僕らが暮らす世界とは、僅かに違っていたのだ。

 精神に疾患を抱えた母の入院生活は、実社会とは隔離されたものになった。母は拘束されることさえ無かったが、外出等を厳しく制限された規則正しいサイクルに身を置くことで社会復帰を目指していた。母の入院した病院は、小高い丘の上にあり四方を緑の芝生に囲まれていた。僕は授業が休みになると、都心部から離れた場所にある病院まで、列車を乗り継いで面会に訪れた。母との面会は気の重くなる務めではあったが、僕にはそれとは別に、ささやかな楽しみがあった。母といつも一緒にいる入院患者の女の子がいたからだ。彼女は恐らく僕と同年代で(少し年上かもしれない)まるで人形のような美しい顔をしていた。何もかもが選りすぐられたように見事に整っていた。長い睫毛、大きく見開かれた瞳、ほっそりとした高い鼻、薄く哀しみを湛えた唇。だがそれらが、あまりに整いすぎているが故に、彼女の美貌は現実から遊離しているかのように感じられた。

 彼女には表情というものが見当たらなかった。いつも無表情で煙草を吸っているだけだった。
僕が母の面会に訪れると彼女は決まって母の隣に座って煙草を吸っていた。「やあ元気かい?」僕は暗い声で母に声をかける。「ああ、元気だよ……」母はまるで魂の抜けた死人みたいな表情で、他人事のように答えた。僕はその顔や声を目の当たりにすると、やり切れない気持ちになった。
それから僕らは、ひどく間延びした臨場感の無い面会を神妙にこなして行った。母は朦朧とした表情で煙草を吸い続け、時折、思い出したように僕に話しかけた。僕はそれらの質問に辞書を引くように慎重に言葉を選んで答えを返した。母を傷つけたくはなかった。というのも、それは新たな問題を僕自身が抱えることになるからだ。僕は、母はともかく、母の病気にはこれ以上関わりたくはなかったのだ。

 彼女は母に寄り添うように座って、僕らの会話をぼんやりと聞き入っているようだった。僕は彼女の美しさにドキドキしながらも、どこかで怖さを感じていた。彼女の美貌に対して。彼女の病気に対して。
彼女は終始無表情ではあったが、そのどこかに僕に対する好意のようなものを感じていた。それは彼女の目の動きや顔の表情や指先の動きに表れているような気がした。自惚れかもしれないが、僕はその事に僅かな優越感のようなものを抱いていた。彼女のような美人は僕には縁遠い存在だったからだ。
そして、それは程なく現実のものとなった。極めて非現実な現実となった。

 それは母がトイレに立ち、僕と彼女が二人きりになった時に起こった。
「私、あなたが好き」彼女はいつもの無表情で、そう切り出した。僕はとても狼狽した。それは彼女の病気が言わせているのか、本来、彼女はそういうタイプの女性なのか判断出来なかったからだ。もちろん僕は安全策を取った。「どうも、ありがとう」僕はそう言って彼女から視線を外し、テーブルに置かれたコーヒカップを眺めた。彼女の言葉はそれ以上続かなかった。そして僕もそれ以上の返事は用意していなかった。

 二度目にそれが起った時、僕と彼女は並んで歩いていた。
母との面会を済ませた僕は、バスの停留所に向かっていた。彼女は後から小走りにやってきた。「歩ける?」彼女は僕に追いついて言った。僕はうなずいた。
 病院の敷地内にある緑の芝生を、僕らは並んで歩いた。「良い天気ね」彼女は歩きながら空を見上げた。1月の冷たい風が彼女の長い髪を揺らしていた。僕には彼女と話すべきことは何もなかった。僕はただここに来て、そして帰って行くだけなのだ。その気持ちと相反するように僕は彼女と歩いていたかった。妖精のような美女と、ただ歩いていたかったのだ。冬の陽射しを受けた彼女の横顔は薄っすらと微笑んでいるように感じられた。彼女は、ごく普通の女の子だった。実際、そうなのだ。実際、夢みたいに魅力的な女の子だったのだから。

「今夜10時に、この場所で待っている。あなたと星空が見たい」彼女は、それだけ言い残すとスタスタと病棟に戻って行った。それはあまりに突然で、あまりに一方的であった。僕は少し気分を害しながらバスに乗った。当然、このまま帰るつもりだった。僕は星空なんかに興味はなかった。
それでも時間が経過するにしたがって、怒りは迷いに変わっていった。あの時、僕は彼女を追いかけて、きっちり断る必要があったのだ。彼女は脆い存在なのだ。冬空の下、彼女を凍えさせて良いのだろうか?
 バスを降りると僕は、駅の方向に向かわずに映画館のある方向に歩き出した。夜まで時間を潰すのだ。
posted by sand at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 超短編小説C | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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