
Rosie Thomas - Only With Laughter Can You Win
妻が後ろから追いついて来た。たくましい右腕に買い物袋を二つ提げている。もう片方の手には薄紫色の傘。今日は雨だ。長い長い日照りの後に細やかな霞のような雨が降った。
「おいおい。荷物持てよ! 何、一人で帰ってるんだよ! ふざけるな!」妻はいつものように怒っている。ああ、そうだ。妻は四六時中、腹を立てていた。そして四六時中、誰かを案じていた。
どうやら我々は二人で買い物に来ていたようだ。私は忘れっぽくなってしまった。そうなんだ。我々は歳を取ってしまった。私の目の前には女性がいる(たくましい二の腕にたくましい太もも。履き古されて傷だらけのサンダル。白髪だらけの頭髪はゴム紐で、きつく結わえてある)。
かって私はこの女性に"恋"をした。まるで自分が紙屑のように燃え尽きてしまうほど、この女性を想った。もう20年も昔の話だ。
妻は私に買い物袋を放り投げ、肩でゼーゼーと息をした。
「いやな。雨だね〜」妻は呼吸を整えてから歩き始めた。我々は雨の中を肩を並べて歩いた。私の右肩は手に持った買い物袋の重みで少しだけ傾いていた。
細かい雨の雫が歩道を濡らし、私の泥だらけのスニーカーを濡らし、妻の傷だらけのサンダルを濡らした。我々は裕福ではなかった。人に自慢出来るような物は何も持っていなかった。時々私は、その事で自分を責めた。だが妻は…。妻はその事で私を責めた事は一度もなかった。理由は分からない。ただ妻はそうしなかった。
薄紫色の傘の隙間に妻の横顔が見え隠れしていた。私はそれを覗き見しながら意外な感情に自分が陥っている事に気がついた。そういう感情は、いつもある訳ではない。ごくごく稀にやって来て、自分でもビックリしたり、恥ずかしくなったりする。そういうのは男にとって、ちょっと厄介な心情だ。女と言う生き物は、そんな心の揺れを敏感に察知して、ある種のハンデキャップを強引に奪い取ってゆく。
どんなに否定しても、どんなに臆病になっても、どんなに誤魔化そうとしても、その日の妻はハッとするくらい綺麗だった。
「あのさ。帰りに喫茶店にでも寄らないか?」私は平静を装おうとしたが、語尾が震えてしまった。
妻は直ぐにそれに気が付いて、勝ち誇ったような笑顔を返してきた。
「なにかしらね? なんなら優しくしてあげても良いわよ」妻は嘲るように笑いながら、そう言った。
「恐ろしい提案だね」私は少しずつ昔の自分を思い返していた。
「そうそう。背筋も凍る誘惑よ」妻はクスクスと笑い20年の月日を飛び越えようとしていた。
雨は…。雨は気を利かせたのか音を消してしまっていた。それとも?
それとも我々は思いも寄らぬほど、近くにいるのかもしれない。息もかかるほど近くにいて、雨の音を締め出してしまったのかもしれない。
Red Rover - "Rosie Thomas"
久しぶりに超短会の投稿用に書きましたが、ぎこちない。もう少し手直しして投稿しようかな。しないかも。
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最初のほうはうちの夫婦のことを書かれているようでドキドキしましたが後半違いました。たぶん雨と荷物の重さを罵り合っておしまいですうちの場合。
でも確かに、20年前にはお互いのことが好きだったんだよなあ。夫婦って不思議ですね。
>最初のほうはうちの夫婦のことを書かれているようで
最初から最後までショコポチご夫妻の仲睦ましさを書いたものです。
>20年前にはお互いのことが好きだったんだよなあ。夫婦って不思議ですね
不思議ですね。感想ありがとう。