2005年07月20日

夏草の誘い

The Hissing of Summer Lawns.jpg

君はオフィスで夏草の誘いを受け取る。

君のパソコンにメールが届く。
君は仕事の手を休めてメールを開く。そこには夏草の誘いが記されている。

オフィスは午前の慌しさの中にある。鳴り響く電話。打ち鳴らされるキーボード。
君は、机の上の整理を始める。パソコンの電源を落とし、書類をファイルにしまう。
立ち上がり、カバンを椅子の上に置くと、君は手ぶらでオフィスを後にする。

君を唖然とした顔が見送る。上司、同僚、部下。
君は決して振り返らずエレベーターに乗り込む。
正面玄関の扉を開き、ビルから表に飛び出すと、ネクタイを外し路上に放り投げる。

通りを歩きながら背広の上着を脱ぐと、不二家のペコちゃん人形にそれを着せて逃げ去る。

ポケットから財布を取り出し、現金だけ抜き取ると財布ごとコンビニのゴミ箱に捨てる。
クレジット・カードも免許証も保険証も病院の診察券もレンタルDVD店の会員証も全て。
君には、もう名前がない。

君は薬指から結婚指輪を外し、デパートのショーウィンドウの前に置き去りにする。
君には、もう家族がない。

君は地下鉄からJRへと乗り継ぎ、都会を離れて行く。

列車の中で、ふと宙吊り広告に目を止める。
そこにも夏草の誘いが刷り込まれている。

30代後半の男性が君と同じように、その広告に見入っている。
やがて、彼は君の視線に気付く。
君は彼に微笑みかけ、肩をすくめる。

彼は、笑いながら静かにうなずくと、メガネをカバンの中にに仕舞い込みネクタイを外す。
彼もまた夏草の誘いから逃げられない。


君は夏草の中に立っている。
風の声を聞き、太陽の輝きに触れる。
草の匂いを嗅ぎ、蝉の歌を楽しむ。

君は夏草の中に倒れ込む。
草の葉がチクチクと君の顔を刺激し、草の隙間から太陽が見え隠れする。

誰かが君の顔を上から覗き込む。
子供の頃の君だ。

君は、子供の頃の君から手を引かれ、夏草の中に消えて行く。


posted by sand at 03:17| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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