2005年08月04日

落日の粘着人(時計館のある街B)

The Stranglers.jpg

僕は暗黒に向かう途中、泥濘に足を取られて転んでしまった。

泥濘にはまった片足は、どんなに力を込めても引き抜く事が出来ない。
ドロドロした泥濘が、片足をきつく締め付けて離そうとはしない。

やがて黒光りする真っ黒い泥は、モコモコと盛り上がり、人の顔を形作った。
「<ワックスびと>か。厄介な事になった」僕は心の中で呪いの言葉を吐いた。

「どこへ行く?」<ワックスびと>は嬉そうに、そう尋ねた。
「人を探しています」

「こんな女か?」<ワックスびと>の顔は一度どろどろに溶解し、新たにソニーの顔に変わった。
「やっぱりソニーは、この道を通ったんですね」

「そう。あの女も暗黒の持つ力に魅せられたんだ。誰でも、そうなる。
誰でも力を欲しがっている。俺もお前も」
「僕には理解出来ない。どうしてソニーが暗黒に近づこうとしているのか」

<ワックスびと>はクックッと押し殺したように笑った。
「力さ。どんな代償を払っても、それは手にする価値がある。弱い生き物なら誰しも、そう思う。
暗黒は全てを分け与え、同時に、全てを奪い去る。

俺も昔は病弱で弱い人間だった。小さい頃から馬鹿にされ続けて来たよ。
ああ。今でも思い出すんだ。あの頃の屈辱をな。

俺は強い心を手に入れたかった。どんな物を引き換えにしても良いと思った。弱い男として生きるのは地獄だよ。失う事など、ちっとも恐れ無かった。

俺は意を決して暗黒に近づいたよ。暗黒は、とろけるほど優しく、凍りつくほど冷たかった。

俺は強い心を手に入れたんだ。俺が心から望んだ物だ。同時に俺は身体を失っちまった。
こんなドロドロの液体になっちまったんだ。

でもな。俺はちっとも後悔なんかしてないんだぜ。俺の心は誰よりも強いんだ。まるで鋼のようにな。
こうやって、お前を苦しめる事も出来る」<ワックスびと>は皮肉混じりに笑った。

「お前は、確か時計館の男だったな?」<ワックスびと>は僕に尋ねた。

「そうです。あなたの時計は今でも動き続けていますよ。ずいぶん遅れてはいますけど、しっかり時を刻んでいます」
僕の言葉を聞くと、<ワックスびと>は驚いたように押し黙ってしまった。

しばらくすると僕の片足を締め付けていた力が弱まり、スッポリと足が抜け出た。

<ワックスびと>は、その場を離れようとする僕に声をかけた。
「もう行け。俺の事を憶えている人間がいたとは驚いたよ。俺の時計を見ていてくれないか。
見ていてくれるだけで良いんだ。」
posted by sand at 04:11| 超短編小説A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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