2005年09月24日

朱肉を聞く男@

朱肉.jpg

朱肉の色を見比べ、香りを嗅ぎ、印影を光りに透かし造形の美しさを査定する。それが僕の仕事だ。

その仕事を僕に紹介したのは、以前、勤めていたデザインスタジオに出入りしていた「山本」と言う男だった。
彼は、印刷関連の数社と連携しながらフリーで動いている男だった。

僕は、デザインスタジオの人間関係に疲れてしまって退職を願い出た所だった。

ある日、退社の道すがら、山本さんから声をかけられた。彼は僕を待っていたようだった。
「次ぎの職場は決まってるの?」彼は、僕が退職する事を知っていた。

彼は僕に奇妙な仕事を紹介した。

「よく考えて。答えは次ぎに会った時に」山本さんは、そう言い残して僕の前から立ち去った。

山本さんの紹介した仕事は、朱肉業界の機関誌に関連した仕事だった。
機関誌と言っても編集の仕事ではなく、朱肉の色や印影の造形をリポートにまとめるだけの、いたって簡単な仕事だった。

朱肉業界の機関誌と言うのは、いかにも胡散臭い物だったが、僕は山本さんの不思議な口調に魅了されていた。
彼は奇妙なイントネーションで話しをした。彼の言葉にかかると、どんな凡庸な作業でさえ、創造性の高い仕事に思えてくるのだった。

特に希望する企業もない僕は、とりあえず、その仕事をやってみる事に心を決めていた。
なにより、その仕事は、人に会う必要がないのが良かった。

朱肉の仕事は、風俗店が建ち並ぶ、雑居ビルの1室が使われた。
事務所には、机・テーブル・電話・ノートパソコンが、それぞれ一つずつ設置されているだけだった。窓にはカーテンもなく、スチールの書類ケースも、ロッカーもなかった。看板も郵便受けもなかった。

机の上には、包装の外された真新しい朱肉が四つだけ並べられていた。朱肉には四桁の数字が、付箋用紙に記入されて張り付けられている。

「査定の基準はありません。基準を作るのは貴方です。」最初の日に山本さんは僕に、そう告げた。

彼の説明は、出社時刻と退社時刻さえ守ってもらえれば、あとは、どう時間を使っても良いとの事だった。
外出も自由だった。

査定した朱肉のリポートを指定されたメールアドレスに送付すれば、僕の仕事は終わりだった。
給料は高くはないが、楽な仕事だと僕は喜んだ。


posted by sand at 13:57| 超短編小説B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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