2005年09月24日

朱肉を聞く男A

朱肉.gif

朝、誰もいない事務所に出社すると、机の上に新しい朱肉が四つだけ並べられていた。
多分、夜のうちに山本さんが置いているのだろう(彼に会うのは給料を手渡す日のみ、月に一度だけだった。他に来客はなかった。電話は一度も鳴らなかった)

最初、朱肉の査定に手間取った。
どの朱肉も同じ色に見えたし、香りや、印影の違いも微々たる物に思われて、僕は不安な気持ちでリポートを送信し続けた。

それから日を重ねるごとに、僕は朱肉そのものに魅せられて行くのだった。

朱肉には「練り朱肉」「スポンジ朱肉」の2種類がある事が分かってきた。それぞれ原料が違う。
朱肉の色には赤口と黄口あり、速乾性・柔軟性・弾力性などそれぞれに特長がある。
用途や原材料によって様々な種類の朱肉が製造され販売さているのだった。

特に上質の朱を使った高級落款用朱肉は、見れば見るほど、その美しさに打ちのめされて行った。

僕は、番号順に並べられた朱肉を、もう一度、最初から比較検討し直した。
朱肉を覆い隠していたベールが少しずつ剥がれ落ちるようで、僕は、この仕事に喜びを見出して行った。

最初の頃、数行しか書く事が出来なかったリポートは、日増しに膨大な量になって行った。

山本さんは、僕の熱心な仕事ぶりを誉めたたえた。依頼主も非常に喜んでいると彼から聞かされた。
しかし、不思議な事に「朱肉業界の機関誌」というものを一度も彼から見せられた事はなかった。

僕は蓄積したデータから朱肉のランクを査定する事が出来るようになっていた。
色あい。印影の深み。盤面の着肉性。本朱(顔料)の質。耐転写性、耐薬品性。
僕は、日々データを積み上げ、朱肉の本質を見極めるべく、分析に没頭していった。

しかし分析が進めば進むほど、僕は何か決定的な要素を見落としているような気がして来た。

ある日、朱肉を眺めながら昼食の弁当を食べている時に、それを思い付いた。

「そうだ。味だ」


posted by sand at 14:43| 超短編小説B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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