2009年01月04日

縁起でもない初夢

 ホテルの一室で窓に映る景色を眺めている。かなりの高層ホテルのようだ。隣のベッドで妻がスヤスヤ寝息を立てている。どうやら私は成功したようだ。テーブルにはジュースの空き瓶やスナック菓子の袋が散乱している。娘たちが昨夜ここにいたようだ。私は満ち足りた気持ちでホテルの窓越しに地上を見下ろしている。ちょうどキンクスの『Sitting In My Hotel』みたいな情景だ。

 良い気分は長くは続かない。どこからか、その気体が私に忍び寄る。そいつは『悪い予感』と自ら名乗った。その黒い物質は私の鼻腔を通って、私の内部へと忍び込む。エクトプラズムみたいに。

 窓に弟の顔が映る。ホテルの側面は急角度の坂道になっていて、弟の運転する車が私の部屋の前に止まっている。
「地上で人が殺されているのを見たよ」
弟はそれだけ告げて、帰って行った。私は弟が二度と戻ってこない気がして不安になる。

 私は部屋を出て、螺旋階段を地上へと下りていく。どれだけ降りても、なかなか地上に辿り着かない。私は螺旋階段を滑り台のように滑って降りることができるように改装するべきだと感じる。とても強く、強く感じる。両手が震えるほど感じる。次の株主総会で提案しようと誓う。でも私はこのホテルの株主だったのかが思い出せない。

 地上には捜査官でごった返している。どれだけの人員が投入されたのだろう? 私は捜査官に混じってロビー周辺で死体を捜す。でも死体は見つからない。私は不安になる。私はこれだけの捜査官を呼んだ責任を痛感して、気分が悪くなる。もし死体が見つからなかったら、私はどうなるのだろう? 私は自分の身に嫌疑がかかるのに怯える。

 私はロビーから中庭に出て死体を捜し続ける。携帯に弟から電話が入る。「おい! 人なんて殺されて無いぞ!」私は怒鳴る。
「殺されてるなんて言ってないよ。人が倒れてると言っただけだ。起き上がって、どっかに行ったんだろう」弟は素っ気無く返事して電話は切れる。私は震えが止まらなくなる。私は間違って通報してしまったのだ。冷や汗が背中に流れる。私は誤報だと捜査官に告げる勇気がない。私はその場から逃げ出し、中庭を覆う植え込みの陰に隠れる。
私は動揺し、自分の軽率な行為を呪う。

 それから、どこかに人が死んでいないか、あたりを見渡す。どこかに死体があれば私は助かる。私は必死になって死体を捜す。
 植え込みの向こう側は、急な斜面になっていて、芝生が植えられている。私はその斜面に視線を這わす。

 芝生の中ほどに人の足首が突き出ているのを見つける。女性の足首で、五本の指にはピンクのネイルが塗られている。埋められたばかりのようで、5本の足指はモゾモゾと動いている。イソギンチャクみたいにピンクの指が揺れている。

 私は大声を上げる。「ここだ! ここに誰か埋められてる! 誰か着てくれ!」
それだけ言って、私はその場にうずくまる。良かった。私は心底安堵する。私は、こう小声でつぶやき、涙を流す。
「良かった。誰か死んでいてくれて。誰か殺されてくれて良かった」

 ここで目が覚めた。まったく縁起でもない。

★普段、夢を見ないのに今年は初夢をみました。縁起でもないけど、ちょっと良い話?のような気がするので書き残しました。
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2008年11月21日

竜宮城に篭城

Nebraska.jpg
Nebraska

Bruce Springsteen

☆長く参加してきた超短編小説会への最後の投稿です。いつもの同タイトルです。超短編の投稿はこれで一区切りにして、もう少し長めをポツポツ書いて行こうかと思っています。たぶん時間がなくて、そんなに書けないと思いますが。
 このお話は、かなりヘビーですが、ずっと昔から書いてみたかったテーマなので、書けて良かったです。低レベルだけど。


 ハリーとジェシカの二人はドライブに出かけ、父の書斎から持ち出したショットガンで3人の関係のない人間を撃ち殺した。

 犯行後、ハリーとジェシカはハイウェイ沿いにあるドライブインに車を停めた。ハリーは周囲を見回した後、後部座席からゴルフバックを引き出して肩に担いだ。ジェシカは黒いサングラスとシルクのスカーフで顔を覆っていた。二人は腕を組んでレストランの扉を開けた。

 ランチ時で店内は混み合っていた。ハリーは注意深く店内を見回し、若い男が一人で食事しているテーブルを見つけた。
「すいません。ここ良いですか?」ハリーは丁寧な言葉遣いで相席をお願いした。
「ええ。どうぞ。僕はこのコーヒーを飲むだけです」
「ありがとう」ハリーは礼を言って、ジェシカを窓際の席に座らせた。
「ハリーです。彼女はジェシカ」
「僕はジャック。ゴルフですか?」ジャックはハリーのゴルフバックを眼にして尋ねた。
「ええ。今、撃ってきたところです」ハリーは微笑んでテーブルの横に立てかけたゴルフバックを指で撫でた。

 ハリーは運ばれてきたランチを無言で食べた。ジェシカは窓の外を眺めたまま、ほとんど食事に手を付けなかった。彼女は店内でもサングラスとスカーフは外さなかった。ジャックはコーヒーをすすりながらペーパーバックの本を読んでいる。

「ちょっと話しても良いかな?」ハリーは食後のコーヒーを口にしながらジャックに尋ねた。
「もちろん。ご覧の通り時間は持ち合わせています」ジャックは両手を広げた。
「夢の話です。今朝見た夢」
「ふむ。興味深い。聞きましょう」

「大地震か大爆発か、地面が揺れ動き、建物が崩落して大勢の人が逃げ惑っています。ある者は悲鳴を上げ、ある者は子供の手を引き、ある者は恋人の肩を抱いて逃げ回っています。でも可笑しなことに僕には危機感が全くないのです。確かに地面は揺れていますが、それほど激しくはありません。揺り篭に揺られているほどにしか感じません。壊れ落ちる建物もカスタードプリンほどの硬さなのです。それが身体に当たっても僕にはこれっぽちの苦痛さえ感じられません。
 僕には周囲の人が逃げ回る理由が分からないのです。僕はその惨事から一人取り残されているのです。

 それで僕は僕と同じような感覚を持つ人間を探しました。いわば同志を探そうと思ったのです。しばらくして逃げ回る人の群れの中に一人ワルツを踊る女性を見つけました。彼女は優雅な身のこなしで人の群れをすり抜け華麗にワルツを踊っていました」

「彼女かな?」ジャックは窓際のジェシカに視線を送った。
「いや。残念ながらジェシカではありません。でも彼女と同じくらい綺麗な女性です。僕は彼女に駆け寄り彼女を抱き寄せました。僕らは同志です。この世界でたった二人の同志なのです。でも彼女は僕の腕の中で冷たく崩れ落ちてしまいました。彼女は華麗なワルツの幻影だけを残したまま僕の腕の中で粉々に砕け落ちてしまったのです。
 そして僕の手の中には箱が残りました」ハリーは話を止め、コーヒーを口に含んだ。

 ジャックは少しづつハリーの様子が変わってきたのを感じていた。ハリーは次第に興奮し、苛立っているようにも感じた。

「僕はその箱を見て愕然としました。何故って? そう。それは僕が幼い頃。地底深く埋めた箱なのです。僕は誰にも知らせず、たった一人でそれを埋めたのです。でも誰かがそれを見ていた。そして、その箱を掘り返し、あの女性に持たせたのです。ああ、なんてことでしょう。なんて卑劣な。なんて野蛮な犯罪でしょう。だってそうでしょ。あの箱には、僕の過去が詰まっているのですよ。ヤツらは僕にその箱を開けさせようとしているのです。ああ、恐ろしい。なんて恐ろしい。僕は…。僕は、その箱を開けたら…。ああああああ!」ハリーは悲鳴を上げて、テーブルに拳を打ちつけた。店内の客は一斉にハリーに視線を向けた。
「ハリー! 落ち着いて! それは夢だ。夢なんだ」ジャックはハリーをなだめようとした。しかしハリーは痙攣を起したように口をパクパク開閉している。
 窓の外を眺めていたジェシカが、落ち着いた様子でハリーの両手を握り耳元に何事か囁いた。ハリーは瞬く間に落ち着いた。

「ごめんなさい。怖い夢だったもので…。取り乱してしまった」ハリーは落ち着きを取り戻してジャックに詫びた。
「おお。気にしないで。怖い夢は誰にでもあるものです」ジャックはコホンと咳払いして立ち上がった。
「では。僕はこれで。どうやら長居してしまったようです」ジャックはレシートを手にして、テーブルを離れようとした。

「ヘイ! ジャック! こいつを受け取ってくれないか!」ハリーはジャックに一声かけて立ち上がり、ゴルフバックのファスナーを開け、そいつを引きづり出した。

「祖母から貰ったんだ」ハリーは銀色のペンダントを手にしていた。
「亀か?」ペンダントは亀の形をしていた。
「ああ。幸運を運ぶ亀だと、祖母は言ったよ」
「おばあさんから貰ったのなら、君が持ってるべきだよ」ジャックは優しく断った。
「いや。僕には幸運は、もう必要ないんだ」
ジャックはジェシカの方を見やりながら「なるほど。幸運なら君の横にいるって訳か。そういうことなら頂くよ」ジャックはハリーの手からペンダントを受け取った。

「ジャック!」はじめてジェシカが口を開いてジャックの名を呼んだ。意外なほどハスキーな声でジャックは驚いた。
「ジャック。亀に乗りな」ジェシカはスカーフの奥で笑っている。
「ああ。そうするよ。でもそれは大人になってからだ。本当の大人になってからだ」ジャックはウィンクしてテーブルを離れた。

 ジャックが店を出ると、ハリーはジェシカと並んで座り彼女の耳元に囁いた。
「気がついたかい?」
「ああ。わかったよ」ジェシカは小声で答えた。
「あいつ。必死だったな」ハリーは可笑しそうに言った。
「ああ。必死だった」
「でも。僕は騙されない」
「そう。あなたは上手くやったわ」

 ハリーは神経質そうに爪を噛んでブツブツ独り言をつぶやいた。
「ああ…騙されるもんか…ヤツらの思うようには、させない。…僕はあの箱を開けるもんか…あの箱を絶対開けるもんか…」ハリーは小刻みに震え始めた。

 ジェシカはハリーの両手を握り、優しい言葉を与え続けた。
「ああ、ハリー。ハリー、ベイビー。お願い怖がらないで。あなたは私の一部なの。あなたは私に含まれているのよ」

 ジェシカ・テイラー、ハリー・テイラー親子は、その日の午後、包囲された警官たちに頭を撃ち抜かれて死んだ。

Bruce Springsteen / Nebraska
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2008年11月02日

カルビーサッポロポテトのバラッド

☆昔、書いたのを、ちょっと修正して超短会に投稿してみました。

サッポロ.jpgraind.jpg
Tom Waits / Rain Dogs

 23か24才の頃、会社を辞めフラフラした毎日をおくっていた。
出来ることは何もなかった。借りていた部屋を引き払い、これといった理由もなく実家に戻った。そこで毎日、部屋の壁を眺めたり、近くの川まで散歩したりした。時々、親父の車を借りて、女の子とドライブに出かけた。どこまで車を走らせても、気持ちは盛り上がらず、暗い気持ちのまま女の子の髪を触って怒られたりした。
 少しは貯金があったので、子供の頃、幾度も通った玩具屋で戦車のプラモデルを買った。プラモの説明書を読んでいると頭痛がして、一つのパーツさえ組み立てる事が出来なかった。俺はこのまま何も出来ないまま終わるんじゃないかと考えると恐ろしくなって、布団に倒れ込んで泣いたりした。それで、そのまま朝まで眠っていた。

 親父とお袋は、そんな出来損ないの息子に何も言わなかった。親父とお袋は小さな化粧品店を経営していた。親父は勤勉で一日も休まず店を開けた。だが親父には商才がなかった。昔から金銭的に裕福だった事は一度もなかった。
 俺は、そんな親父をどう扱って良いのか分からなかった。親父とお袋が、その小さな店を心底大切にしてる事は、俺にも分かった。だが親父の口からそれ以上の気持ちは伝わって来なかった。
 俺はその店を継ぐべきなのかと思ったりしたが、気が重くなって直ぐに止めた。

 散歩先の川に面した公園にいた。ジャングルジムにもたれて見飽きた景色を眺めていた。お袋が小走りで俺を探しに来た。店の制服姿のお袋は黒ずんで汚らしかった。何故だろう? 子供の頃から、ずっと思っていた事だ。

 弟の所まで、奨学金の書類を届けるように頼まれた。急にその書類が必要になったようだ。俺には断る理由が何もなかった。もちろん気は進まなかった。俺はジャングルジムにサヨナラを言って、渡された書類を持ち電車に乗った。車で行くかと聞かれたが、俺は断って電車を選んだ。久しぶりに乗ってみたかった。弟の通う大学までは、3時間くらいかかる。俺は車窓を流れて行く景色に目をやりながら、久しぶりに良い気持ちになった。

 弟は俺と違って努力家だった。少しずつ力をつけて俺より遥かに良い大学に受かった。将来の夢もハッキリしている。俺はそんな弟を羨んだり、疎ましく思ったりした。

 弟は部屋で俺の来るのを待っていた。書類を渡したが、弟から礼の言葉はなかった。弟は俺に腹を立てているようだった。弟の正論は良く分かる。「苦労して大学まで出してもらって…」ってヤツだ。だが今の俺には何もかもが鬱陶しかった。
 俺は弟と音楽の話がしたかった。俺と弟は、中学生の頃から同じジャンルのレコードを集めていた。俺は部屋に上がり込んでレコードの棚を物色した。「なにか良いレコード買ったか?」昔のように俺は聞いてみた。弟の返事はなかった。玄関先に立って険しい目つきをしたままだった。
 俺はしばらくレコードの背文字を目で追っていたが、バカバカしくなってやめた。そして腹が立った。玄関先まで行って、弟とにらみ合った。俺は弟の肩を拳で小突いて、部屋を飛び出した。暗い気持ちで駅までの道を歩いた。

 駅に着いても暗い気持ちは晴れなかった。俺は電車には乗らず、駅の構内にある小さな定食屋でビールを飲み、味噌鯖定食を食べた。店のテレビで巨人戦のナイターが中継されていた。俺はボンヤリそれを眺めながらビールを飲んだ。つまんでいた味噌鯖は少しずつ冷たくなっていった。

 ナイター中継が終わって店を出た頃には、陽は落ちて真っ暗な闇が広がっていた。駅の待合室に弟が座っているのが直ぐに分かった。俺の方から声をかけた。
「どうした?」弟はバツの悪そうな顔をしてコンビニの袋を手渡した。中にはケースに入ったカセットテープと"カルビーのサッポロポテト"が入っていた。
「トム・ウェイツの新しいアルバムだ。ロバート・クワインとキースがギターを弾いてる」弟はカセットテープの説明を付け加えた。"サッポロポテト"には触れなかった。
「キースって。キース・リチャーズか?」俺は聞き返した。弟はうなずいて「そうだ」と言った。それから弟は何か言いたそうな顔をした。俺は兄として男として、それ以上、弟に喋らせる訳にはいかなかった。

「帰ったら親父に頼んで店の仕事、手伝わせて貰うよ。あの店は俺が継ぐ。お前は自分のやりたい事をやれよ。じゃあな」俺は弟に、それだけ言い残して改札に向かった。振り返ったら弟が俺を見送っているような気がした。俺は振り返らず、小走りで改札を抜けた。

 ホームの一番端まで歩いて、真っ暗な闇に線路が溶け込む場所を眺めた。俺はその暗闇に目を凝らしていると急に心細くなった。心細くて、心細くて、今にも泣き出しそうになった。
 それで俺は手にした袋を探り、弟がくれた"サッポロポテト"に手を伸ばした。それは本当に"ささやか"な重みだった。

 俺は一生かかって、この"ささやか"さを味わって行くんだと、その時、決めた。
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2008年09月09日

ひとりごと

There Goes Rhymin´Simon.jpg
Paul Simon / There Goes Rhymin' Simon

 アライグマ男が僕の左肩に右手を乗せた。
僕の前には、動かなくなった小ウサギが横たわっている。

「どうしてかな? どうして生きている間に気がつかなかったことが、死んだ瞬間に分かってしまうんだろう? どうしてかな? どうして、全部丸ごと分かってしまうんだろう?」

 アライグマ男は小指を唇に添えて、少し考えてから(チャーミングにも見える)こう答えた。

「気づかせたく、なかったんだろ。生きてる間にはね」

「そうか。そうだよな。誰だって、すべてを知られたくはない」

 僕は冷たくなった小ウサギを抱きしめて、その小さな重みを引き受ける。
 アライグマ男は、踊るようにキッチンのテーブルに歩み寄り、小皿に盛られたチョコチップ・クッキーをチョンとつまんで、口に放り投げた。(それは、またしてもチャーミングに見えた)

 僕はアライグマ男のようにチャーミングには生きられない。僕は手当たり次第に湧き出る重みを引き受けて、疲れ果て、哀しみ、ストレスを溜め込んだ。そして、その苦しみの度合いだけ自分を許した。

「ねぇ。どうして君は引き受けないんだ? どうして君は自由でいられる?」僕はアライグマ男に問いかけた。でも、その問いは、そのまま答えでもあった。

 アライグマ男は何も言わずに僕に微笑みかけた。僕はその微笑を、ずっと昔から知っている。僕はそれに含まれていた。それの一部なのだ。僕は引き受けられている。僕は産まれる前からその微笑に引き受けられていた。

 人は人から産まれる。


☆母と一緒に銀行に行きまして、母の預金を移し変えようと、暗証番号を聞きました。「××××」母が4桁の数字を言いますと、どうも心当たりがある数字です。私が不思議そうな顔をすると「あんたの誕生日だよ」と母。
エ〜とか思いまして、俺もう43歳なんだけど…


Paul Simon -- Take Me To The Mardi Gras
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2008年05月31日

空飛ぶ水族館

An old raincoat won't ever let you down.jpg
Rod Stewart / An old raincoat won't ever let you down

★超短小説会5月分の投稿でした。大甘ですな。

「ねぇパパ。それね。お空、飛ぶの?」
雄太は俺に聞いた。いつものように俺にそう聞いた。

 雄太は今年五つになる。俺と俺の母親が雄太を育てている。雄太の母は、つまり俺の妻は、雄太が3歳のときに職場の男と駆け落ちした。雄太と俺を捨てて、あの女は消えてしまった。

 最初に種を撒いたのは俺だ。俺は同窓会で再会した女とデキてしまった。妻が職場の男とデキる前の話だ。俺はまだ若く、妻や子供が俺にとって、どんな値打ちがあるのかが、まだ理解出来ないでいた。俺はただ、別な女と楽しみたかっただけだ。遊びだった。

 妻が俺たちの関係を疑い始めると、俺はすぐに女と手を切った。それで遊びは終わりだった。だが妻にとっては終りではなかった。それから妻は俺を憎み始めた。

 妻が俺と雄太を捨てて、はじめて俺は家族がどんなものなのかを理解した。それはとても脆く壊れやすいものだった。だからこそ守る必要があるものだった。どんなものにも代えられないものだった。

 雄太は辛抱強い子供だった。泣きわめいて俺たちの手を煩わすことなど、ほとんどなかった。俺たち夫婦は雄太に甘えてしまっていた。雄太がどんなに俺たちを必要としていたかを、俺たちは気がつかずにいた。

 妻が家を出て、俺の実家に身を寄せるようになっても、雄太はそれほど取り乱すことはなかった。ジッと耐えて妻の帰りを待っているようだった。俺は雄太に、こう話した。
「ママはね。海の向こうに行ったんだ。空を越えて行ったんだ。だから少し帰りが遅くなる」
 雄太は本当のことに気がついていたかもしれない。だが俺は本当のことなど、とても話せなかった。

「ねぇパパ。それね。お空、飛ぶの?」雄太は、いつも俺にそう聞いた。動物の図鑑を見せても、自動車のイラストを見せても、ディズニーランドの写真を見せても、同じ事を聞いた。雄太はそれに乗って海を渡り、空を越えて妻に会いに行きたいと思っていたのかもしれない。それでも俺は雄太を問いただせなかった。それに向き合うのが怖かった。

 2ヶ月前、失踪した妻からメールが届いた。何度も躊躇した後、俺はメールを開いた。
男とは別れた。肉体と金、目当ての男だった。何度も死のうとした。でも死にきれなかった。許されないことは分かっている。だけど後悔していることだけ知ってほしい。メールは、そんな言葉で埋め尽くされていた。

 俺はそのメールを読んで、熱が出て寝込んでしまった。ずっと張り詰めていたものが緩んでしまったのだ。妻への憎しみと、ホッとした気持ちが心の中を渦を巻いていた。
『俺たち家族は、もう一度、やり直せるかもしれない』俺は男のメンツよりも、その希望にすがりたかった。

 俺はゆっくり時間を空けてから、妻へメールを返した。俺と雄太が、今、どんな暮らしをしているか。そのことだけを打ち込んで送った。妻からすぐに返信が届いた。『ありがとう』『ありがとう』メールには何度もその言葉が踊っていた。俺たち夫婦が、いつの間にか忘れてしまっていた言葉だ。

 それから俺たちは毎日メールを交換した。こわばっていたお互いの気持ちが、メールが届くたびに緩んでいくのが分かった。俺は妻を許していた。そして昔以上に妻を愛することが出来そうな気がした。3人で会おうと誘ったのは俺の方からだった。
『水族館で待ってる。そこから、もう一度やり直したい』俺はメールに、そう記して送った。俺たちが結婚前に何度も会った場所だ。俺たちはそこで、俺たちの将来の話をし、まだ出会っていない俺たちの子供の話をした。俺は若い妻の肩を抱いて、幸せになろうと誓った。

 返信が届いて、妻は俺の誘いを受けた。それで俺は、もう一人を誘った。
「なあ雄太。水族館に行くか?」

 雄太は、キョトンとした顔をして聞いた。
「ねぇパパ。それね。お空、飛ぶの?」

 俺はこの2年間を思い返し、胸を詰まらせながら答えた。

「ああ。飛ぶよ。その水族館はね。海だって、空だって、飛び越えて行くんだ」
posted by sand at 15:39| Comment(4) | TrackBack(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月03日

Nightswimming / 応答せよ、白石さん

In Time.jpg夜のプール.jpg
In Time: The Best of R.E.M. 1988 - 2003

 深夜、ボクは金網を乗り越えて、小学校のプールに侵入した。
金網の向こうから彼女が缶ビールを放り投げた。ボクの手を借りて、彼女も金網を越えた。

 ボクは、Tシャツを脱いでプールに飛び込んだ。
彼女は、Tシャツのままプールに入った。

 夜のプールは、冷たくて良い気持ちになった。
ボクらは、それぞれ勝手に、あたりを泳いだ。月明かりだけが、ボクらを照らした。プールの水は黒く淀んで、タールのように、へばりつく感じがした。

 泳ぎ疲れると、彼女と水に浸りながら缶ビールを飲んだ。

 月明かりに浮かぶ彼女は、とても綺麗だった。
ボクは、彼女の顔を眺めている時だけ不安から逃れられた。

 彼女は、夜空の月を眺めながらボクに聞いた。
「月に行ってみたい?」
「いや。べつに」ボクは答えた。
「私は、行ってみたいな」
「ふ〜ん」

「もしもよ。もしも月にプールがあるとするじゃない」
「ふむ。もしもね」ボクはうなずいた。

「そう、もしも……。もしもプールがあるとするとね。私は月のプールに忍び込むのね」
「金網を乗り越えて?」
「そう。月でも私はチャレンジャーなのよ。猛者って呼ばれたいわね」
「なるほど。獰猛なんだ」

 彼女は缶ビールを頬に当てて笑った。

「おいおい。獰猛はねぇだろ。……まあ、いいや。とにかく月のプールに忍び込んだ私は、水に浸って地球を眺めるのよ。プールから地球が見えるわけね」
「そして缶ビールを飲む」

「そうそう。日本酒だと演歌入っちゃうでしょ? ウオッカだとコサック入っちゃうしね」
「なに? コサックって」
「複雑なものが入り込む余地があるって事よ」
「ビールは入らないんだ」
「入っても連中はアバウトだから気がつかないのよ」
「誰だよ。連中って?」
「うるさいよ! 黙って話し聞けよ。
 缶ビールを飲みながら、大きくて青い地球を眺めるのよ。夜空にミラーボールみたいな、地球が浮かんでるのよ。凄いと思わない。綺麗だろうな〜」

 ボクは夜空にぶら下がった青い地球を思い浮かべて見る。

「それから地球の白石さんに無線で連絡を取るわ。アア…コチラ、ツキ。コチラ、ツキデスネン。イマ、ヨッパラッテマスネン…とかね」
「悪いけど一点だけ。白石さんって誰?」
「え! お前、憶えてねぇのかよ!」
「う〜〜む」どうやら忘れては、いけなかったようだ。誰だ?白石って……

 ボクは話題をかえた。
「君は、そんな目的で月まで行くのか? なんかバカっぽいよ」ボクは笑った。
「え? 何だって」彼女は急にムキになった。そうなると手におえない。
「なにが可笑しいわけ? どんな目的なら正解なわけ? どんな理由なら行動に移して良いわけ? 説明しなさいよ。私が納得出来るように説明しなさいよ。
 じゃ、聞くわよ。あなたは何の為なら行動を起こすわけ? どんな目的ならスタートをきれるわけ? あなたを駆り立てるものは、一体なんなの?
 夢? お金? プライド? 物欲? 愛? それとも…… 恐れ?」彼女はボクに詰め寄った。

 ボクは返事のかわりに、彼女にビール缶を差し出した。彼女が缶を受け取ると、そのままブクブクと水中に潜った。

 ボクは、水の中から月と呼ばれる惑星を眺めた。
それは、ユラユラうごめいて、ボクの心の中のように頼りなく感じられた。

 やがて月のプールから地球に向けた、彼女の無線が聞こえてきた。
『アア……コチラ、ツキ…コチラ、ツキ…オウトウネガイマス……
……ネェ…オウトウシナヨ……シライシサン……』

☆昔書いたのを短編会への投稿用に改作。いまいち無理があった。それにしてもREMのこの曲は好きだな〜。ストリングス・アレンジはジョン・ポール・ジョーンズ氏。地味ながら良い仕事。

R.E.M. - Nightswimming
posted by sand at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月10日

逃亡

★超短編小説会さんへの11月分の投稿です。かなり遅れましたが、久しぶりに新しく書きました。後半が弱いですね。


「この道。近いって。行こうよ」
玲子は路地の前で俺と娘達を誘った。路地は暗く狭かった。私は気が乗らなかった。

「嫌だよ。そんなに遠くないだろ」私は断った。
「なによ。すぐそこなんだって! 絶対近いから」玲子は尚も食い下がった。私は腹が立ってきた。


「まあ、まあ。ここはチャレンジしても良いんじゃない」上の娘が間に入った。「行くよ。お母さん」上の娘は先に立って路地に足を踏み入れた。玲子は肩をすくめて、ニッコリと俺に微笑みかけた。そして路地に向かって歩き出した。下の娘もそれに続いた。私は首を何度か横に振って路地に入った。

 家族4人が揃うのは珍しくなった。娘達も中学生になると、それぞれの友人と行動する事が多くなった。少し前まで、どこに行くにも4人一緒だったのに。

 4人でホームセンターで買い物をし、近くのファミレスまで食事に行く途中だった。
「それほど遠くないし、今日は良い天気だから歩いて行きましょうよ」言い出したのは玲子だった。玲子は思い付きで、いつでも私を振り回した。私は何に付け、用心深く計画し、几帳面にそれをこなして行くタイプだった。だが、私は自分の性格が決して好きではなかった。奔放な玲子を私は理解できなかったが、同時に、不可欠な存在だとも感じていた。玲子と一緒にいると、時として自分の考えすぎる性質が馬鹿馬鹿しく思えた。

 
 路地の中ほどまで行くと数人の男達の声が聞こえて来た。罵声だ。私は心臓が縮み上がった。玲子と子供達は立ち止まって辺りを見回している。「止まるな。進め」私は小声で囁くと先に立って歩き出した。


 声はビルとビルの隙間から聞こえてきた。この路地からさらに横に伸びる路地だ。路地にしては、かなり広い空間で雑草とゴミが散乱した場所だった。私はビルの壁に身を潜めて、声のする場所に視線を注いだ。

 数人の若い男達が一人の太った男に因縁をつけていた。若い男達は見るからに不良だったが中学生くらいにも思えた。若い男達は、太った弱々しい男を怒鳴りつけ、時折ヘラヘラと笑っていた。中の一人が太った男のポケットから財布を抜き取った。太った男は、始めて声をだした。「うお・お・お、ぬ・あ・あ」太った男の声は言葉にならなかった。男は泣いているのか、あるいは…。

「ちょっと、あの子。障害者じゃないの」玲子が私の背中越しに様子をうかがって、声を漏らした。

 私は玲子を路地の奥に突き飛ばした。それから「黙れ」と仕草で合図した。私は震えていた。


 怖かった。

 私は反対したんだ。私はこんな場所に来たくは無かったんだ。玲子だ。玲子の間違いだ。私のせいではない。あの子は障害者なんかじゃない。ただ泣いて声が詰まっただけだ。中学生のイジメだ。どこにでもある事じゃないか。我々はただこの道に迷い込んだだけなんだ。我々とは何の関係も無い。我々は何も見なかった。

 私は震える足で元の大通りへと路地を引き返した。玲子と子供達は腑に落ちぬ顔をして後から付いてきた。私は次第に急ぎ足になっていた。私は光のある方向へ、いつしか駆け出していた。そこから逃げたかった。逃げ出したかった。

 路地を抜け大通りに飛び出すと、私は呼吸と心臓の鼓動を整えた。大粒の汗が額に浮かんだ。
「あなた! 警察。警察。呼ばなきゃ」玲子は私に駆け寄って声を張り上げた。
「黙れ! お前のせいだろ! こんな道に連れ込んだのは、お前だろ! いいか。俺は毎日、擦り切れるほど働いてるんだ! たまの休みだ。たまの休みなんだよ。俺をトラブルに巻き込むのは止めろ! 俺達は何も見てない。そこで何が起こったのが俺達は知らない。知らないんだ。いいか、俺は疲れているんだ。もう帰るぞ」


 私はホームセンターの駐車場まで戻って、乱暴に車に乗り込んだ。後から玲子と娘達が無言で車に乗り込んだ。私は車を走らせた。一刻も早く、その場から立ち去りたかった。
 
 私は、その時になっても自分が震えている事に気が付いた。その震えは、どんどん激しさを増して行くようだった。


 助手席に座った玲子が、すすり泣き始めた。

 私の震えは治まらなかった。その震えは、私がこれまで辿って来た人生や家族との絆や社会的な地位や受けてきた教育や情けや良心を揺らし続けた。
 やがて、その震えは、私そのものを飲み込んでしまったのだ。
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2007年11月11日

あと五分 (あなたの指先が、わたしの心の棘を放つまで)

☆おなじみ超短編小説会さんへの10月分の投稿用に書きました。と言っても時間もなかったので、以前書いたものを手直しただけです。


 キーーンと耳鳴りがして僕は目を覚ました。
目の前に黒いサングラスをした女が座っていた。女は、見るからに上質の毛皮のコートを脇に置いて、白いセーターを着ている。髪は短くシャープに切り揃えられていた。細くしなやかな長い足。スッと伸びた背筋。指には節度ある貴金属が輝き、どこから見ても女は、高級感を漂わせていた。ただ…。

 ただ、女の顔には無数の深く切り裂くような皺が這っていた。ゾッとするほどの痛々しささえ漂わせたその皺は、赤いルージュが引かれた唇に執拗に纏わり付くようだった。この女は、一体、何歳なのだろう?

 辺りを見回すと、空席が目立った。何故、この女は僕の前にわざわざ座ったのだろう? 女は前を向いてはいるが、どこに視線があるのか、サングラス越しには分からなかった。やがて、女の口が動いた。僕に何かを話しかけているのか?

 僕は、プレイヤーのイヤホンを外して耳を自由にした。女の声が、もう一度、聞こえて来た。「何が見える?」女は、窓の外に向かって顔を振った。

 僕は、窓の外に目をやってから返事をした。「川が見えます」
女は、皺だらけの顔をクシャクシャにして、ニッタリと微笑んだ。

 女の言葉は、それ以上続かなかった。女は無言で窓の外を眺めている。列車の発する規則正しい音が、カタン、カタンとリズムを刻む。僕は窓の外に広がる、大きく曲がりくねった川に視線を戻した。冷たく澄んだ空気の中で、日の光を浴びた水面がキラキラ輝やいている。白い鳥が、数羽、水面から羽ばたいた。

「おまえは、心の川に降りて、そこに刺さった『棘』を抜く必要がある」
女は、窓の外を見つめたまま、唐突に、そう切り出した。

「心の川?」僕は、小声でつぶやきながら女の顔を見つめた。女は、ズカズカと僕の中に上がりこんできた。でも不思議と不快な気持ちには、ならなかった。僕はこの女と、どこかで会った事があるのだろうか? 女は僕の事を良く知っているような気がした。
 おそらく僕自身よりも。

「人の心には、川が流れている。とても深い川だ。わかるか?」女の言葉に、僕は首を振った。

「心の川には、記憶や感情や思考や感覚や、あらゆる物が流れ続けている。その川は、心を通って身体の隅々まで溢れるような想いを押し流していく。しかし、誰の心にも決して流れ去らぬ物が残される。忌まわしき記憶。忘れ得ぬ痛み。終ることの無い哀しみ。それらは、心の川に『棘』となって突き刺さり、その傷口から流れ出た血は川を赤く染め続ける」

 女は窓の外に蛇行する大きな川を眺めながら言葉を継いだ。
「苦痛に優劣など無い。哀しみに上下は無い。人が受けた傷に、適当・不適当など無いのだ。どんなに、ささやかな傷でも、傷は傷だ。どんな傷であっても、そこから血が流れ出す事に違いはない。誰の心にも傷がある。誰の心にも『棘』が突き刺さっている。誰の心からも血が流れ続けている」女の吐いた熱い息が、窓ガラスを白く濡らした。

「心の川に降りて行く事は容易ではない。そして『棘』を抜く行為には苦痛を伴う。二度と触れたく無い過去と、もう一度、向かい合わねばならないからだ。しかしだ。」
女は、言葉を切って息を吸い込んだ。

「しかし『棘』そのものは忌まわしき物ではないのだ。『棘』は、その人そのもの。
おまえが残した『棘』は、おまえ、そのものだ。おまえは心の川に降り、抜き去った『棘』を『銀色の魚』に変えねばならない。そして、その『銀色の魚』を心の川に放つのだ。放たれた、かつての『棘』は、美しい想いとなって心の川を泳ぎ続ける。
いいか。それが『許し』だ」

 女は、話しを止めて、僕を見つめ続けた。僕は、胸の奥深くに沈みかけている、ある情景を思い起こそうとしていた。

 女は、右手を自分の顔の真横まで持ち上げ「パチン!」と指を鳴らした。
「5分だ」


 ★ ★ ★


 気がつくと、僕は朝の気配の中にいた。爽やかな風が吹き抜け、穏やかな日差しが僕を包み込んでいた。季節は夏なのだろう。僕がいる場所は林の中だった。

 目の前にネコがいた。ネコは「ついて来て」と言い残し、林の奥へと駆け出して行った。
僕はネコの後を追って林の奥へと走り出した。冷たい風が頬を打ちはじめた。水辺が近い。

 林は不意に途切れ一瞬のうちに視界が開けた。そこは、かって見た事のない雄大な景色が広がっていた。僕は、驚きのあまり立ち止まらずにいられなかった。

 広大な川だ。豊かな水量を湛え、緩やかに流れ行く川が、見渡す限りに広がっている。朝日に照らされ、眩く光る水面。それは穏やかな風に揺らめきながらキラキラと輝いていた。ただ、その川の水は赤かった。赤い血の色をしていた。

 そして川岸には、象の群れがいる。何千、何万…それは広大な岸辺を埋め尽くすがごとく、膨大な数の象が佇んでいた。
 驚いた事に、それらの象の群れは、まったく動く気配を見せず、まるで静止画像のように停止したままなのだ。象達は、まるで魂を抜かれたように、その場に呆然と立ち尽くしている。鳴く事も、走る事も、寝そべる事も無かった。ただ、象達は何かを待ち受けるように、その場に立ち尽くしているだけだった。

 ネコは一頭の象の鼻先に歩み寄り。その鼻先に自分の頬を寄せた。象は嬉しそうにネコを鼻先に乗せて高々と持ち上げた。象の頭部にボッカリと穴が開き、ネコは、その穴の中にスルスルと降りて行った。象の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 やがて象は、ゆっくりと足を折りたたみ地面に横倒しになった。

 しばらくして先ほどの穴からネコが姿を現した。口に何かくわえている。白く光る大きな骨のような物だ。おそらく、それは象の心から抜かれた『棘』なのであろう。
『棘』を抜かれた象は静かに目を閉じ、もう二度と動く事はなかった。

 ネコが象の身体から身を離すと、その『棘』は『銀色の魚』に姿を変えた。ネコは、魚を大切そうに川に放った。『銀の魚』は、眩いほどの輝きを残して水中に消えていった。ネコは、その作業を何頭も何頭も繰り返した。

 象の心から抜き取られた『棘』は、数多くの『銀の魚』となって水中に消え去った。

 やがてネコは、僕に歩み寄ると声をかけた。
「この世の怒りや哀しみを、象達は引き受けて心に『棘』を残すのです」ネコは首を何度か横に振った。

「あなたは、まだ若く、象達の運命を理解する事は難しいかもしれません。ただ、誰もが何かを引き受けているのです。この世の全ての生き物は、この世の全ての生き物の為に、何かを引き受けなければなりません。それは当然の事なのです。あなたが、心から愛する人に巡り会った時、あるいは美しい子供達を授かった時、その事を知るでしょう」
 
 ネコは、そう言い残すと足早にそこを後にした。僕は、もう一度、川を振り返り、その光景を瞳に焼き付ける事が出きるならと願った。

「パチン!」指を鳴らす音が聞こえて、僕は我に返った。
目を開くとサングラスの女がいた。「時間だ」
 女はコートを手にして立ち上がった。列車が駅に着いたのだ。
女は、決して振り返る事なく、ホームの人ごみの中に瞬く間に消えてしまった。

 僕は一人、座席に残り、女が僕に残した5分間を何度も何度も思い返していた。
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2007年10月11日

その白い世界に(The Cutter)

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Echo & the Bunnymen / Porcupine

 祖父が首を吊って死んだ朝。それは大晦日の朝でもあった。
とにかく、その日は朝から雪が舞っていた。それらは山間の田畑に音もなく降り積もり、そこは白い世界だった。白く冷たい世界だった。

 祖父が死んだのは私が7歳の時だった。私は7年間を祖父と同じ屋根の下で暮らした事になる。生きている祖父の記憶は、ひどく曖昧だ。祖父を知る人間は、皆一様に祖父は決して怒らない人だったと言う。だが私の記憶に残されている祖父は、私に罵声を浴びせ、力任せに殴り飛ばした。鬼のような形相をした祖父だった。だが、それは一度きりの事だ。たった一度だけ祖父は私に怒りをあらわにした。
 それは、家へ戻る坂の途中。私がそれを傷つけた時の事だった。

 祖父は明治の終わり、山間の集落を束ねる資産家の家に生まれる。祖父は幼少時代を乳母によって育てられ、住み込みの女中達に取り囲まれて少年時代を過ごしたと伝え聞く。確かに写真で見る祖父は、線の細い神経質な顔立ちをしている。戦時を生き抜いた男にしては、ひどく頼りなく貧弱に見える。

 祖父の父は、典型的な破滅型の人生を歩み、一代で莫大な財産を飲み潰したと言われている。祖父の父は、馬に乗って町に現れ、芸者を上げ、酒を飲み尽くし、女郎屋に寝泊りしたと聞いた。祖父の母は、とても穏やかで知的な女性だったと伝え聞く。祖父の母は、隣町のやはり資産家の令嬢として育ち、祖父の父の元に嫁いだ。だが祖父の母は、祖父を産んだ後、40歳を前にしてこの世を去った。祖父の父がうつした梅毒が脳にまわり狂って死んだのだ。
 今、私の手元にある当家のお位牌の中には、祖父の母の名前が抜け落ちている。恐らく祖父の母は、死ぬ前に離縁し、実家で死を迎えたのでないかと考えられる。もう一つ、祖父の母は、夫をひどく憎んでいたと聞いた。それは呪いと言い換えても良いのかもしれない。その呪いの存在を、その後の私達は何度も肌で感じ取った。

 没落した祖父の一家は、逃げるように山の麓に家をかまえる。ひどく粗雑で貧しい家だった。私の父や、そして私自身が産まれたのも、その家だ。里から引き篭もるように、その家は、急勾配の傾斜地に引っ掛かるようにして建っていた。

 祖父の父は意外にも長生きし、その豪胆な人生を大往生で締めくくる。祖父は大工の職を得、祖母と結婚をする。つかの間の安息の日々をおくる祖父を待っていたのは、二度にわたる大戦だった。祖父は二度徴兵され東南アジアで戦闘に加わったと言われている。当時まだ新婚だった祖母は、人里離れた家に一人住み、祖父を待つ不安な毎日をおくったと後に聞いた。

 やがて終戦を迎え、帰郷した祖父は別人のように無気力な人間になっていたと祖母は私に話した。祖父は腕の良い大工だったのだが、それ以後、ほとんど働かなくなったと言うのだ。祖父は大戦で何を目にし、何を感じ取ったのかは、今となっては到底知り得る事ができない。
 月に数日しか働かない祖父を尻目に、祖母は寝る間もなく働いて、やがて産まれて来た、父やその兄弟達を育て上げた。祖母は気丈で屈強な女だった。私は今でも祖母に尊敬の念を抱いている。祖母は死ぬまで弱音を吐かなかったし、強く優しい女であり続けた。

 私の父が結婚し、同居を始めると、益々祖父は孤立して行った。祖父はまるで自分が、この家に不必要な事を自覚しているように、いつも暗い納戸といわれる三畳ほどの部屋に引き篭もって、家族の前に姿を現さなくなった。
 そして私が産まれた。

 祖父はいつも小さな声で、私に話しかけたのを憶えている。消え入るような声だ。祖父の印象は透明で、まるで脱色されたように存在が色薄い。祖父は影のようにこの家に生息し、窓のない狭い部屋に一人引き篭もった。
 私は時々、祖父が寝泊りする、納戸を覗き込んだ。その部屋は私を震え上がらせた。そこには『光が存在しない』のではなかったのだ。その部屋には『別の物が存在した』のだ。『暗黒』だ。そこには確かに『暗黒が存在していた』。


 その日、祖父と私は家へと続く坂の下にいた。坂の下にある郵便ポストが壊れたので修理に来たのだった。その日の祖父は珍しく快活で、私を誘い、大工道具を抱えて坂を下りた。
 修理は直ぐに終わり、私は祖父から持たされたノコギリを抱いて坂を駆け上がった。その時の私は6歳くらいだっただろうか。祖父は笑いながら私の後から坂を上ってきた。私は祖父の真似をしてみたくなった。それで坂の途中にあった杉の木に向かってノコギリの歯を付きたてたのだ。それは職人が使う、とても良く切れるノコギリだった。子供の私にも杉の木の幹を傷つける事は容易だった。すぐに幹の表皮が切り刻まれた。
 その時だ。その時、祖父はただ一度だけ私の前で怒り狂った。

 不意に坂の下から祖父の怒鳴り声が聞こえてきた。祖父は鬼のような表情をして私の頬を平手で殴りつけた。私は吹き飛ばされるように道に転がった。その後、祖父は、とても慌てた様子で、私が傷つけた杉の木の傷跡を両手で押さえた。まるで、そこから何かが零れ落ちるのを防いでるような気がした。

 今になって思うのは、その時の祖父には、その杉の木から何かが零れ落ちるのが、確かに見えていたのではないかと言うことだ。それが何かは分からない。ただ祖父にはそれが見えていた。恐らくそれは祖父が戦場で見たものと関わりがあるのかもしれない。あるいは、それがある種のノイローゼ患者の見る幻覚だったとしても、祖父がそれを見たことには変わりがない。

 ほどなく祖父は自らの命を絶った。

 祖父の死やその動機は、今でも私の直ぐ身近に存在して、私の背中にヒッソリと寄りかかっているような気がする。私は祖父と言う運命に翻弄された弱い男の生きた時代を追い、その真意を問い続ける。

 あの日、祖父が私から守ろうとした物は何なのか? 祖父が戦場で失った物は何だ? そして祖父を絶望させた物の正体とは? 

 だが、答えはいつでも、あの場所に吸い寄せられ、その姿を消してしまう。あの場所とは、祖父が死んだ日に、幼い私が目にした世界の事だ。

 おそろしく冷淡で非情な、あの白い世界にだ。


このお話は、ペンギンフェスタ2007に参加しています。

Echo & The Bunnymen - The Cutter
posted by sand at 16:10| Comment(8) | TrackBack(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月05日

路上のWild Horses

Sleepless Nights.jpgHorse night.jpg
Gram Parsons & The Flying Burrito Brothers / Sleepless Nights

 3号線沿いに、歩道をトボトボと歩いた。
通り過ぎたトラックの排ガスに包み込まれ、俺達は「ケホケホ」と咳き込んだ。

「あんたさ。幸せってな。どんな形してると思うか?」隣を歩くユミコがつぶやいた。
額に汗が浮かび、頬が少し赤く染まっている。

「俺さ。今日な。人を殴ったよ。ムチャクチャ、ムカつく男だったんだ。それでな。そのクソ男をさ。殴った後な…」
「幸せになれたか」ユミコが口をはさんだ。
「それがな。殴った後な。ますますムカついたんだよ。つまりな。そういうのはな。幸せと違うんだ。多分ね」俺はそう言い終わった後に、間髪入れずに後悔した。またユミコを失望させてしまった。

 ユミコは無言だった。俺は焦って辺りを見回した。路側帯に潰れた空き缶が転がっていた。だけど、俺が探しているのは"適当な言葉"だった。どうしても、そいつが見つからなかった。

「幸せってな。馬の形をしてるんだよ」ユミコは口を開いた。
「飛び切り逞しくて、力強い馬だよ。どこまでも駆けていくんだよ。どこまでも、どこまでも駆けていくんだ」

「そうか……。馬だったか」俺は何だか、そいつを長い間、見落としていたような気持ちになった。なんてこったい。なんてバカだったんだ。そいつに気が付かなかったなんて……。

 歩道に冷たい風が吹いてきて、俺達二人を揺らした。夜は冷えるね。なんせ、もう10月なんだ。

 俺は、神秘の森のように揺れ動く、夜の街路樹の下でユミコを抱き締めた。ユミコの耳の下に冷たくなった俺の鼻を押し入れた。俺は何度か鼻を鳴らした。俺の心の中に湧き起こった、何物かが、俺の鼻を鳴らした。

 俺はユミコの大きく前に付き出した、お腹をさすった。そこに潜む同胞が、少しだけ身体を動かした。俺の手にユミコの手が重なった。俺達は揃ってユミコのお腹を、さすり続け、その同胞に合図を送った。

「こいつ。駆けてくかな?」俺はユミコのお腹に鼓動を感じながら、つぶやいた。

「ああ。駆けてくよ。どこまでも、どこまでも、どこまでも、駆けてくよ」ユミコは重ねた俺の手に、力を込めた。


Wild Horses - tribute to Gram Parsons
posted by sand at 16:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月27日

あっかんべー

★今月は忙しくて更新出来なかったな〜。考えてるのが幾つかあるのですが。また時間の取れた時にでも。
 このお話は、もはや古株になってしまった超短編小説会さんへの投稿用に9月の始めに書いたものです。今回のお題は『あっかんべー』でした(覆面投稿でもありました)


The Velvet Underground.jpg
The Velvet Underground & Nico

「悪いが道を開けな。俺は急ぐんだ。さもないと、俺は、俺自身から追い抜かれちまうんだ」
 Robert"Villain"Bay(2004年9月10日没)

『悪漢ベイ』ことRobert"Villain"Bayの生まれ育った場所は今もって謎に包まれている。一説によるとサンフランシスコでダンサーを目指していた。あるいはまた、ヒューストンでSF作家を志していた。などなど…。だがどれも確証の無い話だ。ベイが我々の前に姿を現すのは、コニーアイランドにある小さな教会の牧師としてだ。彼は町の若いヤツらに"ポット"を配布していた事が明るみになり、直ぐにその教会から追放される。
 それから約30年後に、悪漢ベイはプリンに襲われて、その命を落とす事になる。例の人食いプリンだ。君たちも動物園でその獰猛な姿を垣間見る事があるだろう。悪漢ベイとその妻のロレッタ・リーは人食いプリンに一瞬のうちに飲み込まれてしまったのだ。
 それが2004年の9月10日。つまり3年前の今日と言う事になる。

ブレンダン・ホッパー(タクシードライバー)の証言
「ああ。もちろん。覚えているとも。ベイは伝説の男だ。オイラもベイから"ポット"を貰ったことがある。ああ。その頃の俺はクソったれのガキだったよ。近所の鼻つまみ者さ。ベイの"ポット"は良い品だった。なんだって? そいつが問題だって? 見なよ。オイラの息子達をよ。どいつもこいつもイカれてやがる。ここいらで"ポット"をやらない子供なんていやしないさ。ここはそんな場所なんだよ。ベイはオイラに生きる術を教えてくれたさ。ああ。今でもその通りに生きてるさ。この街には、この街で生きるルールがあるのさ。そいつをベイから学んだんだ。あんたらが『悪漢ベイ』と呼んで恐れた、あの男からさ」

 教会から叩き出された悪漢ベイは、ニューオリンズの売春宿(パンプス)に腰を据える。

レディ・レイチェル(元パンプス・ホステス)の証言
「あっははは。ベイかい! 知ってるとも! アイツは5セント持って『フェラチオしてくれ』って、あたしに頼みにきたのさ。はは。もちろん引き受けたさ。あたしはプロだよ。手抜きなんてなしさ。だがね。アイツのコックときたら。そりゃ馬並みだったよ。さすがのあたしも顎の骨が外れるかと思ったね。ふふふ。良い時代だったよ。あたしもアイツも若かった。みんなバカだったけどね、そこいらに笑いが落ちていたよ。今から思えば楽しい時だった。それが今じゃ…。ほら、ごらんよ。男にショットガンで足首を撃ち抜かれちまった。もう立つ事も出来やしない。もう、あたしは終わりだよ。もちろんベイもね」

 その後、ニューヨークに出たベイは、ポップアートの巨匠アンディ・ウォホールに気に入られ、彼のボディガードとしてファクトリー(ウォホールの工房)に出入りする。

ルー・リード(ロック・ミュージシャン)の証言
「オレ達は、よくファクトリーの廊下でセッションしていた。ああ。ニコは、いなかった。ベイは廊下の壁にもたれてオレ達の演奏に聞き入ってたね。『俺には音楽は分からんが、お前らの言いたい事は分かるよ』と言ってた。ある時、バンド名は決まったか? とベイが聞いてきたんだ。オレは名前なんか関係ねぇ。と答えた。そしたらベイのヤツが、名前くらい持ってても荷物になんてならねぇよ。と言って手に持ってたSM雑誌を放ってよこしたんだ。その雑誌はオレの足先に落ちて、中のグラビアが開いた。そこには、こんなタイトルが記されていたんだ。『The Velvet Underground』。それが始まりさ」

 そしてデトロイトの乱射事件が起きる。世界を震撼させた、この事件は、死者36人を出した無差別殺人事件として一大センセーショナルを巻き起こす。犯人のRobert Bayは「悪漢ベイ」と名づけられTV・新聞の紙面を賑わせる。

匿名(弁護士)の証言
「でっちあげさ! ベイは犯人じゃない。ベイはただのネズミさ。良く鼻の効くネズミさ。ヤツには女がいた。名前は、そうロレッタ・リー。ヤツは無垢な子供のように、その女に惚れちまったのさ。だが、ベイには過去があった。ベイはそいつを消したかったんだ。ちょっとや、そっとじゃ消えない過去さ。こんな時代に這い回るように生きた男には、消せない過去は付き物なんだ。それでベイは取引したんだ。犯人は、ちょっとした男だった。そいつが明るみになると困る人間が大勢いたんだ。それでベイが捕まり、自白した。そしてベイは社会から抹殺される。それからベイではない人間が、この世に生まれたんだ。
 そいつがカラクリさ。ベイは数年の投獄の末に、名前と素性を変え、もう一度社会に吐き出された。ロレッタ・リーの肩を抱いてね」

 かって「悪漢ベイ」と呼ばれた男は、激動の末に愛妻との穏やかな生活を手に入れる。だが不幸は不意にやって来て、全てを台無しにしてしまう。散歩中の二人は人食いプリンに、あえなく飲み込まれ、その生涯を閉じる。

レディ・レイチェル(元パンプス・ホステス)の証言
「若かった、あたしらには怖い物なんてなかった。でも今じゃ。今じゃ、いつも怯えているよ。怖くてたまらないのさ。ああ、ベイ。悪漢ベイ。安らかに眠りな。あんたは、もう怯える必要はないんだよ……」


velvet underground - venus in furs
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2007年08月27日

暗黒の世界(手首に沢蟹を飼う男)

Starless and Bible Black.jpg
King Crimson / Starless and Bible Black

 振り返ると暗がりに斧を振り上げた老人が立っていた。
老人は眉を少しだけ上げた後、僕の右腕を目掛けて斧を振り下ろした。「すぱん」と乾いた音をたてて、僕の右腕は床に転がった。

 僕は呆然とその場に立っていた。なにより驚いたのは、僕は痛みを感じていなかった。そして一滴の血さえも流れてはいない。老人は白いサラシを切断した腕にクルクルと巻き付け、黒いカバンにしまった。入れ替わるように、今度は黒い布に覆われた長い筒状の物をカバンから取り出した。黒布を剥ぎ取ると、中から人の右腕が現れた。その腕は、暗がりを背にして、冷たく、そして青白く浮かび上がった。その時、僕は初めて恐怖を感じた。だが身体は金縛りにあったように身動きが取れない。
 老人は手に持った他人の右腕を、僕の腕が切断された場所に添えた。腕同士は、まるで引き寄せ合うように一つに繋がった。
 次に老人に目をやると、彼は金魚鉢を両手で抱えていた。
金魚鉢の中は真っ赤に染まっている。でもそれは金魚ではない。目を凝らすと、それは無数の沢蟹である事が分かった。老人は僕の頬に片手をあて、僕の口をこじ開けた。老人の指先は氷のように冷たかった。
 老人は金魚鉢から沢蟹を掴み取ると、僕の口の中に投げ入れた。沢蟹は躊躇することなく、僕の舌先から喉の奥へと、カサカサと入り込んでいった。それは気も狂うほどの感触だった。僕は声にならない悲鳴を上げた。
 老人は次々に沢蟹を投げ入れた。僕は幾度も嘔吐しそうになりながらも、蟹達の侵入を為す術もなく受け入れた。蟹達は僕の体内を這い回った。灰に、胃に、心臓に、目の裏に、そして脳内に。僕は苦痛と恐怖に身体を引き攣らせ、やがて失神した。

 目を覚ますと僕は自宅のベットの上にいた。夢か。僕は安堵した。大量の汗で布団が、びっしょりと濡れていた。僕は右腕に目をやった。普段と変わらない。僕は着ていたTシャツを脱いで浴室に向かった。シャワーを浴び、歯を磨いた。その時になって違和感が襲ってきた。何かがいる。やはり僕の身体には何かがいる。蟹だ。
 蟹達は、僕の血液の川瀬を這い回っている。体中の至る場所に蟹達はいた。だが、しばらくすると、その動きがある一定の方向を指している事に気づいた。蟹達は僕の右腕に向かっていた。蟹達は手首に流れる動脈の川瀬に集い、そこを棲家とするようだった。
 僕は、それを誰にも話せなかった。話せば気が狂ったと疑われる。僕はその事を秘密として抱える事にした。もちろん僕は秘密のない人間などではない。幾つもの秘密を抱えていたのだ。

 僕は蟹達が住み着いた右腕を左手で支えながら職場に向かった。僕は右腕を這い回る蟹達の気配を、決して同僚に悟らせたくなかった。僕は自分のデスクに右腕を押し当てて、誰の目にも付かないように気を配った。昼休みになると人目を避けるようにビルの屋上に上がった。右腕は鉛のように重くなっていた。僕は左手で、なんとか右腕を支えて、よろめきながら屋上に上がった。僕は恋人のソニーに携帯で連絡を取った。ソニーの携帯番号を押し、応答を待った。
 電話に出たのは男だった。聞き覚えのない声だった。男はひどく慌てていた。そして怯えているようにも思えた。
「いいか。俺が電話をかけている場所は暗黒だ。俺は暗黒の中にいる。お前はハメられている。利用されているんだ。いいか。今すぐ逃げろ。お前を知る、ありとあらゆる人間を疑え。暗黒はお前の背後にある。いつでも口を開けて、お前がそこに落ちるのを待っているんだ…」男の電話は不意に途切れた。直ぐにソニーの声が聞こえた。
「もしもし? 聞こえる?」僕はソニーに返事をした。「ああ、聞こえる」
「可笑しいわね。混線したのかしら? 誰が出たの? なんて言ったの?」ソニーは先ほどの男が気になるようだった。僕は喉元まで出かかった『暗黒』と言う言葉を寸前で飲み込んだ。それでもソニーは何か感づいたようだった。
 ソニーは呼吸を整えてから、凄みの有る声で、こう告げた。
「貴方は『暗黒』と言う言葉を聞かなかったはずよ。ええ。決して聞かなかった」

 僕はソニーとの電話を切ると、エレベーターに飛び乗った。エレベーターの中は、いつもより薄暗い気がした。そして僕は背後に恐ろしいほどの冷気を感じた。
 振り返ると、エレベーターの暗がりに切断された右腕を抱えた老人が立っていた。
僕は彼に話しかけようとしたが、やはり口も身体も動かなかった。老人は僕に歩み寄ると、右腕をつかみクルクルと回転させた。「すぽん」と拍子抜けするような音がして、右腕が僕の身体から外された。老人は腕の切り口に視線を注いだ後、満足そうにうなずいた。それから僕に見えるように腕の切り口を向けた。切り口には、おびただしい沢蟹が詰まっていた。蟹達は幾重にも幾重にも折り重なり、腕は今にも、はち切れそうな気配がした。僕が育てたのだ。
 老人は小脇に抱えていた、もう一つの右腕を、僕の腕の切り口に添えた。腕同士は、ひっそりと寄り添うように一つに繋がった。
 老人は蟹の詰まった右腕を大切そうに両手で抱えると、眉を少しだけ上げた。それが別れの台詞だった。老人は再度、エレベーターの暗がりに身を潜めた。
 そこが暗黒に繋がっているのだ。僕はそれを確信した。

 身体に再び自由が戻ると、僕はエレベーターの暗がりに向かって全力で体当たりをした。その壁の向こうに違う世界がある。暗黒の世界。それがあるはずだ。
 僕はエレベーターの堅い壁に頭部を打ち付けていた。額が割れ、血が噴き出した。僕は血まみれで、その場に倒れ込んだ。意識が薄れて行く。だが僕には聞こえる。蟹が。蟹が這い回る音が聞こえる。ここではない別の世界だ。とても冷たくて恐ろしい世界。そして僕はその世界に魅せられている。

 目を覚ますと僕はベットに寝ていた。でも僕の部屋ではない。窓には鉄格子。簡素な白い壁。僕の両手、両足はベルトで締め付けられている。ベットの横に誰か座っている。ソニーだ。
「気が付いた? 貴方は夢を見ていたわ。とても恐ろしい夢」ソニーは感情の消えた冷たい眼をして言った。「ここは、どこだ。僕はどうして縛られている? 君達は僕をどうする気だ?」僕は感情を抑えきれず叫んだ。
「ここは病院よ。貴方には休養が必要なのよ。お願いだから声を上げないで」
 僕は自分の右腕に視線を向けた。肘の辺りに突起物が見えた。赤く鋭く尖っている。蟹の足だ。蟹の足が僕の右腕から生え出ている。
 僕は騙されている。僕は何者かに利用され、口を封じられようとしている。僕は尚も叫び続けた。「ソニー! 僕を消すのはやめろ! 僕も暗黒に連れてってくれ! 僕を置いて行かないでくれ!」
 ソニーは黙って立ち上がると、ドアの外に向かって合図した。数人の白衣を着た男達が部屋に押し入ってきた。中の一人が大きな注射器を僕に向かって突き立てた。

 確かに…。確かに何かが僕の知らない場所を這い回っている。でも世界は…。
世界はそれを決して認めようとはしない。かたくなに拒み続けている。


★ようやく書き終わりました。お暇なら読んでね、気味が悪いけど…。短編小説会の投稿用です。
創作は大スランプ中ですが、営業はなかなか調子が良い。大きな大学病院が決まりそう。頑張りま〜す。
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2005年08月26日

斉藤清六的空間

斉藤清六.jpg

我々は、空間に生きる。そこに暮らし、そこに死ぬ。
それは、過去から未来へと数珠繋ぎに連なり、絡み合い、移り変わる。
ある時、君の脳裏に、裏通りを照らす街灯のようにポツンと明かりが灯る。
「斉藤清六的空間とは?」

君は、高くそびえ立つタワーの前に立っている。
見上げるとタワーの頂上近くに展望台が設置され、人々が君を見下ろしている。

君はタワーのロビーに足を踏み入れる。そして、展望台までノンストップで駆け上がるエレベーターの前に立つ。

君は下を向いて考え事をしている。やがて、エレベーターの扉が開く。
君は、下を向いたまま、そこに乗り込む。
ようやく顔を上げた時に君は気付く。
そこには斉藤清六が笑って立っている。他には誰もいない。
君の後ろで扉が閉まる。
君は、そこから逃げられない。

君は斉藤清六と目を合わせないように扉の方向を向いて息を潜める。
でも、君は斉藤清六から逃げられない。
何故なら、そこは、斉藤清六的空間だから。

君は、斉藤清六に含まれる。彼にもてあそばれ、彼に撫で回される。彼に蹂躙され、彼に慰められる。彼に溺愛され、彼に甘やかされる。彼に、不必要なほど癒され、泣きたくなるほど楽しまされる。

君は震えて立ち尽くす。頬から滝のように汗が滴り落ちる。

扉が開き、君は、決して後を振り返らずに展望台のトイレに駆け込む。君は、そこで何度も嘔吐する。

ようやく気分が落ちつき、トイレの扉を開ける。
そこには斉藤清六が笑って立っている。

君は、そこから逃げられない。
posted by sand at 19:35| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

Nightswimming

Nightswimming.jpg 夜のプール.jpg
R.E.M. / Automatic for the People

深夜、ボクは金網を乗り越えて、小学校のプールに侵入した。
金網の向こうから彼女が缶ビールを放り投げた。
その後、手を貸して彼女を引っ張り上げた。

ボクは、Tシャツを脱いでプールに飛び込んだ。
彼女は、Tシャツのままプールに入った。

夜のプールは、冷たくて気持ちが良かった。
ボクらは、それぞれ勝手に、あたりを泳いだ。
月明かりだけが、ボクらを照らした。
プールの水は黒くよどんで、へばりつく感じがした。

泳ぎ疲れると、水の中で彼女と並んで、缶ビールを飲んだ。

月明かりに浮かぶ彼女は、とても綺麗だった。
ボクは、彼女の顔を眺めている時だけ不安から逃れられた。

彼女は、夜空の月を眺めながらボクに聞いた。
「月に行ってみたい?」
「いや。べつに」ボクは答えた。
「私は、行ってみたいな」
「ふ〜〜ん」

「もしもよ。もしも月にプールがあるとするじゃない」
「そりゃ絶対無理な、もしもだって」ボクは笑った。

「だから、もしもなの!もしもプールがあるとするとね。私は月のプールに忍び込むのね。そうして地球を眺めるのよ。プールから地球が見えるわけね」
「そして缶ビールを飲む訳だ。」

「そうそう、缶ビールを飲みながら、大きくて青い地球を眺めるのよ。凄いと思わない。綺麗だろうな〜」

「君は、そんな物の為に月まで行くのかい?」ボクは笑った。
「じゃ、あなたは、何の為なら行動を起こすわけ?
お金?プライド?名誉?愛?それとも・・・・恐れ?」彼女はボクに聞いた。

ボクは彼女に、ビールの缶を手渡すと、そのまま、ブクブク水中に潜った。

ボクは、水の中から月と呼ばれる惑星を眺めた。
それは、ユラユラうごめいて、ボクの心の中のように頼りなく感じられた。

 ひとつひとつの街灯が
 逆さまの像を描き出している
 それでも それははるかに鮮明だ
 水辺にシャツを忘れてきてしまった
 今夜の月は低い
  「R.E.M./Nightswimming」
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2005年07月20日

夏草の誘い

The Hissing of Summer Lawns.jpg

君はオフィスで夏草の誘いを受け取る。

君のパソコンにメールが届く。
君は仕事の手を休めてメールを開く。そこには夏草の誘いが記されている。

オフィスは午前の慌しさの中にある。鳴り響く電話。打ち鳴らされるキーボード。
君は、机の上の整理を始める。パソコンの電源を落とし、書類をファイルにしまう。
立ち上がり、カバンを椅子の上に置くと、君は手ぶらでオフィスを後にする。

君を唖然とした顔が見送る。上司、同僚、部下。
君は決して振り返らずエレベーターに乗り込む。
正面玄関の扉を開き、ビルから表に飛び出すと、ネクタイを外し路上に放り投げる。

通りを歩きながら背広の上着を脱ぐと、不二家のペコちゃん人形にそれを着せて逃げ去る。

ポケットから財布を取り出し、現金だけ抜き取ると財布ごとコンビニのゴミ箱に捨てる。
クレジット・カードも免許証も保険証も病院の診察券もレンタルDVD店の会員証も全て。
君には、もう名前がない。

君は薬指から結婚指輪を外し、デパートのショーウィンドウの前に置き去りにする。
君には、もう家族がない。

君は地下鉄からJRへと乗り継ぎ、都会を離れて行く。

列車の中で、ふと宙吊り広告に目を止める。
そこにも夏草の誘いが刷り込まれている。

30代後半の男性が君と同じように、その広告に見入っている。
やがて、彼は君の視線に気付く。
君は彼に微笑みかけ、肩をすくめる。

彼は、笑いながら静かにうなずくと、メガネをカバンの中にに仕舞い込みネクタイを外す。
彼もまた夏草の誘いから逃げられない。


君は夏草の中に立っている。
風の声を聞き、太陽の輝きに触れる。
草の匂いを嗅ぎ、蝉の歌を楽しむ。

君は夏草の中に倒れ込む。
草の葉がチクチクと君の顔を刺激し、草の隙間から太陽が見え隠れする。

誰かが君の顔を上から覗き込む。
子供の頃の君だ。

君は、子供の頃の君から手を引かれ、夏草の中に消えて行く。
posted by sand at 03:17| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月18日

ペンギン枕

Penguin Cafe Orchestra.jpg

彼らは生きていく為に枕になる事を選んだ。
彼らとはペンギンの事だ。

ペンギン枕は、一年の大部分をペンギンとして暮らす。
彼らがペンギンである以上それは至極当然の事だ。
彼ら(ペンギン)は家庭に設置された専用冷凍庫の中で気ままな暮らしを楽しむ。
餌は使用主から彼らが買い取る。

その費用を捻出するのが彼らの枕としての仕事だ。
ペンギン枕は、蒸し暑く寝苦しい夜に冷凍庫から取り出され、人の枕として使用される。

動物愛護団体は、ペンギン枕が動物虐待だと声高に主張するが、彼ら(ペンギン)にとっては、それは単純に仕事なのだ。彼らは自分の身体を張って、自分の力で生きようとしているだけなのだ。
彼ら(ペンギン)には<飼育>という恩着せがましい拘束手段こそ虐待に思えた。
「<飼育>するくらいなら、元の場所に返せよ。元の環境を返せよ。
今更どうにもならないなら俺らは自分の力で生きていくぜ。」
彼ら(ペンギン)には、そんな意地があった。

冬はペンギン枕にとっては長い休暇だった。彼らは冷凍庫の中でのんびりと気楽な日々を過ごす。
使用主の子供が不意に発熱した夜などに、ペンギン枕は冷凍庫から取り出される。
子供達の頭の下に轢かれ、頭部の熱を優しく取り除く。
フワフワした羽毛で安らぎを与え、愛くるしい笑顔で不安を和らげる。

ペンギン枕.jpg

ペンギン枕が人々から愛され必要とされている理由は、そこにあった。
膨大な維持費を差し引いても余りある価値をペンギン枕は有していた。

彼ら(ペンギン)はプロなのだ。
どんなに無理な体勢を強要されても、彼ら(ペンギン)は決して根を上げなかった。
どんなに邪険に扱われても、彼ら(ペンギン)は人懐っこい愉快なペンギンであり続けた。
どんなに彼ら自身の体調が悪くても、彼ら(ペンギン)は枕になる事を拒まなかった。
彼らは筋金入りのプロだった。鋼鉄のように強い意志を有した。
彼ら(ペンギン)は自分自身の力だけで、この地に踏み止まっていたかったんだ。

夏こそが、ペンギン枕のシーズンだ。
ペンギン枕は毎晩のように冷凍庫から取り出され、お父さんやお母さんの頭の下で夜を明かす。
もしくは子供達に抱きつかれ、幼い寝息を聞きながら朝を迎える。
明くる朝、彼ら(ペンギン)はクタクタになって冷凍庫に戻され、彼ら自身の夜をようやく迎える事になる。

日曜日は寝る暇がない。お昼からビールを飲んで酔っ払ったお父さんの枕となる。
夜は夜で誰かの胸に抱かれる。

ペンギン枕は誰からも愛された。誰もが彼ら(ペンギン)を必要としている。

彼ら(ペンギン)にとっては、それが喜びだった。
ペンギン枕は自分の仕事に誇りを持っている。自分の人生に誇りを持っている。
posted by sand at 01:14| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月19日

Year of the Cat (猫の惑星)

Year of the Cat.jpg 猫2.jpg

西暦2080年。ついに我々は、「猫の惑星」に到着した。

我々は、0歳の時に宇宙船に乗せられ40年かけて、この惑星にやってきた。壮大な計画なのだ。

我々の面倒をみたり、教育してくれたスタッフは、惑星に着く前に全員死んでしまった。
非情な計画なのだ。

「猫の惑星」には、先行の調査通り、酸素が豊富にあった。
我々は宇宙服を脱ぎ捨て、「猫の惑星」に足を踏み入れた。

そこには見渡す限りの草原で、太陽に良く似た惑星からの光が燦燦と降り注いでいた。

草原には、猫達が、お昼寝したり走り回ったりしていた。

我々は、依頼された調査書を放り投げて、猫と一緒に草原を走りまわった。
花々に囲まれて、お昼寝し、四葉のクローバーを探した。

宇宙船には、非常用に50年分の液体食料が、つんであった。
インターネットを地球に繋ぎ、Al Stewartの「Year of the Cat」をダウンロードした。

「他に何か必要な物が、あったけ?」我々は、頭をひねって考えたが、特に思い当たる物はなかった。

今日も、地球からの電話がリン!リン!鳴っている。
我々は、電話機をオーブンレンジの中に入れ、蓋を閉じる。

そして、ドアを開け放ち、猫達が待つ、草原の中に飛び込むのだ。
posted by sand at 11:37| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

December Will Be Magic Again

Kate Bush.jpg 冬の公園.jpg

僕は、彼女の部屋に来ていた。
彼女は、台所でシチューを作ってる。

さっきまで一緒に買い物に行っていたんだ。
ブロッコリーとマッシュルームのホワイト・シチューを食べようか。彼女は、僕にそう言った。

買い物を済ますと彼女のアパートまで歩いて帰った。
もう、ずいぶん寒くなってきた。歩道には銀杏の葉が降り積もっていた。
葉の散ってしまった木々は、見ているだけでも心細く感じられた。

「冬の街って、なんだか寂しいね」彼女は僕に言った。
「そうだね」僕は答えた。
「冬の街を眺めていると<耳うさぎ>の話を思い出すわ」
「<耳うさぎ>って?」僕は彼女に聞いた。
「<耳うさぎ>はね。寒い冬の夜に現れるのよ。冬の星座の光を浴びると、耳が黄色く光り始めるの。
<耳うさぎ>を抱いた者は、一つだけ奇跡を起こす事が出きるって言われているのね」彼女は、そう言った。

木枯らしが吹いて、僕らは肩を寄せ合って歩いた。

「誰もが、奇跡を求めて、<耳うさぎ>を捕らえようとしたわ。でも<耳うさぎ>は、とても利口で、どんなに大勢の人間から追われても、どんな罠を仕掛けられても、決して捕まらなかった。
 
ある夜、年老いて身体の弱った男が、雪山にうずくまっていたのね。<耳うさぎ>は彼を助けようと、彼の胸の中に飛び込んだのよ。

<あなたは奇跡を起こす事が出来ます。あなたが心から求める物事を思い浮かべるのです>そう<耳うさぎ>は、年老いた男の心に語りかけたのね。

男は<私は、全てを失って、もう疲れ果ててしまった。私の願いは、消えるように死んでしまいたい。それだけです。>そう願ったの。
奇跡が起きて、男は眠るように穏やかに死んでしまった。

<耳うさぎ>は愕然としたのね。彼の願いは叶えたけれど、結果的に<耳うさぎ>は男を殺してしまったからよ。

<耳うさぎ>は、死んだ男のそばを離れる事が出来なかった。<耳うさぎ>は男と一緒に雪に埋もれて、死ぬ事を選んだの」彼女の話は、そこで終わった。

「う〜ん。救いのない話だね。何かの本で読んだの?」僕は彼女に聞いた。
「ううん。今、私が思いついたの」彼女は、ニッコリ笑って、そう言った。

部屋の戻ると、ケイト・ブッシュの「12月は魔法の季節」を、かけてくれた。これも、クリスマス・ソングなのよ。彼女は言った。

僕は、ジャガイモの皮を剥くのを手伝った。シチューの鍋がコトコト音をたてた。

ふと窓の外を見ると雪が降り始めていた。
僕らは、ガラス窓に顔をくっ付けて、それを眺めた。
「不思議ね。冬の街は、寂しいのに、雪が降り始めると、途端に暖かな気持ちになるわよね。」彼女は、外を見ながら、そう言った。
「そうだね。不思議だね」僕は言った。

「きっと私達の周りには奇跡が沢山起こっているのかもしれないわね。私達が気付いていないだけで」彼女は言った。

僕は彼女の肩に腕を廻した。彼女の肩は小さくて、僕には彼女の存在そのものが奇跡のように思われた。

 恋人達を包み隠すために
 暗闇を明るく照らし出すために
 汚れた部分を覆い隠すために 私は舞い降りてきたの
  「December Will Be Magic Again / Kate Bush」
posted by sand at 04:57| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月19日

ワビシサを食す

sanma.jpg
さんま蒲焼に付随する「ワビシサ」味わいたい。
もし、君が、そう思うなら、まず、いずまいを正す事だ。

それは小雨降る午後が宜しかろう。
その時が来たのなら、テーブルを片付けよう。掃除機をかけても良い。髭を剃ろう。真新しい服に着替えよう。

テーブルの上には、さんま蒲焼とご飯だけ。
ちゃぶ台ならキチンと正座して背筋を伸ばす。テーブルならキチンと足を揃えて、やはり背筋を伸ばす。
TVを消して、雨の音を聴きながら、それを味わう。

さんまのジンワリした甘味が、やがて「ワビシサ」に変わるだろう。
かくのごとくして「ワビシサ」は、雨のように身体を濡らす。


yakitori.jpg
焼き鳥の缶詰に付随する「ワビシサ」味わいたい。
もし、君が、そう思うなら、まず、ビジネスホテルを予約する事だ。

場末のビジネスが良い。窓に飲み屋のネオンがボンヤリ映し出されるようなら好都合。
コンビニで焼き鳥の缶詰とワンカップを購入しよう。

間違ってはいけない事がある。焼き鳥の缶詰自体には「ワビシサ」は存在しないのだ。缶詰に付いてくる「つまようじ」に存在するのだ。
決して、これを捨てては、いけないよ。
缶詰に付いてくる「つまようじ」は、ちょっとだけ短い。これ以上、短過ぎるとユーモラスだし、長過ぎるとゴージャスになる。
この適度な短さが「ワビシイ」。

ワンカップを開けて、ちょっと短い「つまようじ」で焼き鳥を頬張ろう。外ではバカ騒ぎ。窓を照らすネオンライト。短い「つまようじ」。
かくのごとくして「ワビシサ」は、雪のように心に降り積もる。
posted by sand at 04:34| 福岡 ☔| 超短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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